見出し画像

日本史の悪役 山県有朋のこと(京都 無鄰菴の旅)

 安倍晋三元首相の国葬で、菅義偉(すがよしひで)元首相は弔辞の最後で山県有朋が盟友・伊藤博文を偲ぶ歌を紹介した。「私自身の思いをよく詠んだ一首」として。

弔辞を読み上げる菅元首相(日本経済新聞から)

 かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ

 山県は、同じ長州出身の伊藤より3歳年上だった。菅氏は、安倍氏より年は6歳上で、長く官房長官を努め、安倍氏の後に首相を務めた。それぞれ若き盟友に対する万感の想いがこもっている。

 日本史上、極めて評判の悪い山県だが、盟友に対する深い悲しみを吐露する熱き人だったのではあるまいか。今回は彼の真実の姿に迫ってみたい。

【目次】
1.寂しい葬儀
2.幕末明治を駆け抜けた山県
3.近代日本の基盤整備を進めた山県
4.無鄰菴(むりんあん)のこと

1.寂しい葬儀
 大正11年(1922年)2月9日、1週間前に死去した明治の元老山県有朋(やまがたありとも)の国葬が行われた。当時の大阪毎日新聞によると、1万人の参列者が入る斎場が、千にも満たずがら空きの状態だったとの言う。

 1ヶ月前に同じ日比谷公園で大隈重信の「国民葬」が多くの民衆に囲まれて行われたのと比較して、東京日日新聞は「大隈公は国民葬。きのうは「民」抜きの国葬でガランドウの寂しさ」と報じたのであった。

 山県の人気は生前から低く、また歴史的評価も著しく悪かったのである。彼は政党政治を否定し、社会運動を厳しく弾圧した。藩閥政治を進め、富国強兵を推進した「軍国主義」を象徴する人物と捉えられてきたのである。

 これまで山県は近代日本にとっての「否定すべき存在」だったと言えよう。今回は彼の生涯を辿ることにより、真実を探ってみたいと思う。

2.    幕末明治を駆け抜けた山県
 山県有朋は、1838(天保9)年6月14日、長州藩萩城下で蔵元仲間山県有稔(ありとし)、松子の長男として生まれた。足軽以下の低い身分であったが幼少より槍の稽古に励んでいたという。

 1863(文久3)年、京都滞在中に高杉晋作と出会い、奇兵隊創設とともにこれに参加した。伊籐や山県などが世に出るきっかけとなったのである。山県は奇兵隊の副官にあたる軍監に就任した。

奇兵隊軍監時代の山県(ウイキペディアから)

 1870(明治3)年、山県は兵部少輔になり、その後1873(明治6)年には陸軍卿に就いた。この間、1869(明治2)年6月、欧州視察に行って独仏の徴兵制度を学んで来たのである。こののち彼は軍制改革に携わった。

 維新の前、奇兵隊の軍監に就任以来山県は「狂介」を名乗っていたが、明治2年頃から「無鄰菴主」が使われはじめている。さらには欧州視察から帰国後には「有朋」を名乗るようになった。

椿山荘の雲海(同社のHPから)

 維新を経て明治の新しい世になり、彼の心に期する何かがあったのであろう。西南戦争後、山県は目白の椿山の1万8千坪の広大な旧大名屋敷を購入し規模を拡張した。これを椿山荘と名付けたのである。

3.    近代日本の基盤整備を進めた山県
 内務大臣の時に山県が進めた重要課題が地方自治制度の確立である。この背景にあったのは自由民権運動が地方にも波及してきたことから、急進派を政治から遠ざける必要があったのである。

内務大臣時代の山県(ウイキペディアから)

 1889(明治22)年4月、市町村制が公布され、翌1890(明治23)年5月、府県・郡制も公布された。山県の狙いは地主や富裕層の政治参加を促して地方議会政治を安定させることにあった。

 1889(明治22)年12月24日、第3代内閣総理大臣に就任し、翌1890(明治23)年7月の第一回衆議院議員選挙を経て、11月日本最初の帝国議会に首相として臨んだ。

第一回帝国議会(ウイキペディアから)

 その施政方針演説において超然主義の下、「主権線」(国境)のみならず「利益線」(安全保証に関連する近隣地域、朝鮮半島を指す)を守る必要性を強調して、それには軍備増強が求められると説いたのである。

 この演説が戦後の民主化の動きの中で、太平洋戦争に至る諸悪の根源として長く批判の対象として捉えられてきたのであった。

 盟友伊籐博文が暗殺された後は、山県こそが最大の実力者であった。政党嫌いの彼も政友会の原敬(はらたかし)には信頼を寄せていた。しかし、その原も1921(大正10)年11月4日、東京駅で暗殺されてしまった。

晩年の山県(ウイキペディアから)

 失意のうちに1922(大正11)年2月1日、小田原の古稀庵にて、眠るようにその波乱に満ちた生涯を終えたのである。

4.     無鄰菴のこと
 山県は和歌を詠んだほか、大の造園好きとして知られる。椿山荘(東京)、無鄰菴(京都)、古稀庵(小田原)を山県三名園と呼ぶが、このうち京都の無鄰菴について述べていくとしよう。

 無鄰菴は下関の草庵を最初として三つ存在するが、一般的には南禅寺近くの3番目のものを指す。これは、1896(明治29)年に造営されたもので、庭園と母屋、洋館、茶室の3つの建物によって構成されている。

無鄰菴庭園(ウイキペディアから)

 敷地は3,100平方メートル、京都市に寄贈されて市が管理している。庭園は山県の指示によるもので、七代目小川治兵衛により作庭されたものである。
 
 それまでの池を海に、岩を島に見立てた伝統的な庭園の手法から、琵琶湖疎水から引かれた流れを生き生きと表現するために、瀬落ちや石の配置など里山の風景をそのまま表現しようという試みが見られる。

無鄰菴カフェ(1,200円でお茶とスイーツがいただける:無鄰菴のHPから)

 また、借景である東山とこの庭園が連続的に繋がっており、見事な景観を呈している。庭園の中央には明るい芝生が広がり、明治中期の当時としては大変斬新なものであったと思われる。

 洋館の2階は要人との会見に使われ、日露戦争開戦直前の1903(明治36)年4月21日、ここで伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎と「無鄰菴会議」を開催して、開戦についての合意を得たという。

無鄰菴会議に使われた洋館(ウイキペディアから)

 『山県有朋と明治国家』(井上寿一著:NHK出版)によると、彼は「閥族・官僚の総本山、軍国主義の権化、侵略主義の張本人と批判されてきたが(中略)19世紀型の欧州秩序が崩壊する中、形成期の大衆社会の危うさを憂慮し、あえて強兵路線を担った」とされる。
 
 自分で築いた明治国家を守るべく、敢えて悪役を買って出たとも言えよう。山県を通して近代日本が確立されたと言っても過言ではないのである。

 無鄰菴の庭に佇む時、山県の熱い思いがひしひしと感じられる。彼もこの庭に、ひと時の安らぎを得たのであろう。(了)