【エレン先生の短編小説04】今から鏡の話をします
「さあ、今日は鏡の話をするよ」
エレン先生は、そう言って席についた。
「昨晩家の鏡が豪快に割れちゃったんだ。だから僕は今日、ヘアセットをするのにいつもより多く時間がかかっちゃった」
皆はふふんと聞いていた。
小学校の図書室内の、特別室。
鍵は先生しか持っていない。それはエレン先生だけじゃなく、先生、と付く人ならば誰でも。
給食終わりの長い休み時間。その時間にここを開けるのは、エレン先生だけだ。
近辺の小学校を日替わりで訪れている英語担当のエレン先生は、ここで色々な話をする。
一週間前は子猫の話だった。
もしあの話の主人公が子像だったら、僕はあんなにもするりと飲み込めなかったかもしれない。
二週間前はたしか、牛乳配達員の話。
だけどそれは、本物の牛乳配達員の話じゃなかった。
そして今日は鏡の話。
学年性別問わずに彼のファンが、この部屋に集まった。
「潤じゃないか。ハロー」
入り口傍の児童に手を振るエレン先生。彼も振り返す。
「ハロー」
「今日はまだ一度も会ってなかったね。いつもは大体廊下で会うのに」
「今日は眠くて休み時間歩いてない」
あははと笑ったエレン先生は、部屋を見渡した。
「あれ、今日はほとんどの子にまだおはようも言えてないな。まずは挨拶からするとしよう」
コホンと喉を整えて、ネクタイを触りながら席を立つ。そして腰を九十度に曲げて。
「皆さん、おはようございます」
と、礼儀正しく挨拶をした。
そんな丁寧な挨拶を前に、皆も座っていられるはずがなくガタガタと椅子から立ち上がる。
「エレン先生、おはようございます」
深々下げた頭を上げると、エレン先生は校長先生になった気分、とご機嫌だった。
「鏡ってどこにあるかな?」
エレン先生に目を向けられた児童が答える。
「家」
「家のどこ?」
「洗面所とお風呂と……玄関にもあったかな」
今朝の僕はお風呂でセットすればよかったのか、なんてエレン先生は指をはじく。
「じゃあ家以外だとどこにある?」
隣の児童がすぐさま答える。
「学校!」
「学校のどこ?」
「えーっと。トイレでしょ、あと教室……はないか。廊下も……あれ!学校って鏡すっくな!」
たしかに、とそこら中から声が上がり、エレン先生も悩み出す。
「一階と二階の間の階段にはなかったっけ?」
「職員室にはあるんじゃない?」
「更衣室になかった?」
ガヤガヤし始める児童たち。
だけどそれは、来週鏡探しゲームをしよう、のエレン先生のひとこえでおさまった。
それまでヒントは内緒にしとこう、と。
「それじゃあ次は質問を変えるよ。君たちはどんな時に鏡を見る?」
僕はハニーとデートする前、の言葉には、上級生だけが笑っていた。
「歯を磨く時」
ひとりの女子児童が手を挙げた。
「顔を洗う時、髪を結ぶ時」
「じゃあ毎朝鏡で自分を見ているんだ」
「うん」
「今朝の君はどうだった?可愛かった?」
え、と頬を赤らめた彼女に、今も最高に可愛いよとトドメをさす。
「君はどんな時に見る?」
次は男子児童。
「俺はあんま見ないなー。学校のトイレで手ぇ洗ってる時くらい」
「歯磨きの時は見ないんだ」
「歯磨きはテレビの前でする」
「顔を洗う時は?」
「顔はテキトーに水かけるだけだし」
きったなと何人かが言って、少しの笑いが起きる。
エレン先生は唐突に、やっばいどうしよう!と大きな声を出した。
「どうしたんですか?」
児童が聞く。
「今にも鼻水が垂れそうだよ。君、ティッシュ持ってない?」
「も、持ってます」
高い鼻を片手で押さえながら、児童にポケットティッシュを催促する。エレン先生のその姿が面白いのか、彼は緩んだ口元を右手で隠しながら、左手で手渡した。
「ありがとう、助かったよ」
鼻をかみ終わったエレン先生は続けた。
「七海はどんな時に鏡を見る?」
六年生の児童は言った。
「私はけっこう見ますよ。今もポケットに入ってるし」
「へえ。さすがお洒落さんだね。どんな時にそれを出すの?」
「リップ塗る時とか、目に何か入った気がした時とか、あと単純に、なんとなく見たくなった時」
僕も君の顔に産まれていたらたくさん見ちゃうだろうな、とエレン先生は呟いた。
「怒ってる顔、泣いてる顔、笑ってる顔。鏡を見た時に、自分がどんな表情で映っていたら嬉しいかな?」
小指と薬指を曲げて、三本の指を立てたエレン先生は聞いた。
「そりゃ笑ってる顔だよ」
ひとりの児童が返す。
「どうして?」
「え、意味?意味なんてないよ」
「考えてみてよ。泣いてる君は、格好悪いの?」
「え、ん〜……」
言い淀む彼をエレン先生は逃さない。大きな瞳で捉え続ける。
しばらくの無言が続いた後に、児童は言った。
「不愉快、かも」
「不愉快?」
「見てて気持ちよくないじゃん。自分の怒ってる顔も、泣いてる顔もさ」
エレン先生はふっと微笑んで、僕も君の笑った顔が一番好き、と言った。
「ちょっとごめん。また鼻水だ」
今度のエレン先生は少し上を向いて、ふたつの手の平を机に置いた。
たれちゃう、と言った。
「誰か僕にティッシュをくれないか」
前列のひとりが立ち、エレン先生のその手の平に、丁寧に供え物のように置く。
「ありがとう」
鼻をかんだエレン先生は、すっきり満足そうだった。
「僕はね、数日前に友達と絶交をしたんだよ……」
鏡の話は、唐突に終わりを迎えた。
「大嫌いって言われた。学生の頃からずっと仲の良かった友人なのに……」
俯きグスッとへこむエレン先生。
そこにいる誰もが心配し、顔を歪めた。
「大丈夫?エレン先生」
「仲直りしなよ」
「私たちがいるじゃんっ」
各々に励ましの言葉を送る児童たち。
エレン先生はか細い声で、ありがとうと言った。
こんなに悲しそうなエレン先生を見るのは初めてだ。
「ワーッハッハッハ!ワッハッハ!」
皆がエレン先生の心に寄り添っているというのに、彼は突然笑い出す。
「ワッハッハ!ワッハッハ!」
その光景に、皆はひとしきり驚いたあと、ぱらぱら笑い出していく。
「なんで笑ってるんですか?」
「ごめんごめんっ、その友達とのやり取りを思い出しちゃって」
「やり取り?」
「昔、僕が喋ったことに対して、そいつが下ネタでしか返さない時期があったんだよ」
下ネタ?と聞く一年生には、隣に座る上級生がなんだろうね、とあやふやに返していた。
「ワッハッハ!ワッハッハ!」
エレン先生は笑い続ける。大爆笑とも言えるその姿には、ここにいる全員が笑った。
しばらくして、笑いのおさまったエレン先生は言う。
「人と話している時の自分の顔は、どうして鏡で見ないの?」
鏡の話に戻った。
少しうーんと考えた。だけどすぐに手が挙がる。
「失礼じゃん」
「失礼?」
「喋ってる相手に失礼」
気の配れるいい子だね、とエレン先生は言った。
「君は見たことある?喋ってる時の自分の顔」
手鏡を携帯していると言った児童に聞く。
「さすがにその時は見ない」
「どうして?」
「その前に整えとくし」
「何を?」
「身なり」
「だけど喋ってる最中に乱れるかもしれない」
「そんなすぐに乱れないよ」
たしかにそうだ、とエレン先生は頷いてから、全体にこう聞いた。
「僕って今、真面目な顔?」
「うん」
「ああやっぱり。だって君たちも真面目な顔だ」
頬をぺたぺた触るエレン先生を真似るように、何人かが頬を触る。僕も触った。
にやりと口角を上げたエレン先生は、頬に手をあてたまま、こう言った。
「今目の前にいる人は、みんな自分の鏡だと思うといいよ」
しーんとなった。
エレン先生を真似て頬を触っていた何人かが、慌てて手を外す。
「僕は今日この部屋に入ってすぐ、潤にハローと手を振ったよね?」
名前を口にされた児童の背筋が伸びる。
「君は僕にどんな挨拶をくれた?」
「ハローって言った、かな」
「手は?」
「振った」
にやり。エレン先生はまた笑う。
「僕が席から立って頭を下げて挨拶した時はどうだったっけ?」
今度は皆に投げかける。
「席から立った」
「それで?」
「頭を下げた」
「ワオ。おんなじだ」
ほんとだーの声が、そこら中から湧き上がる。
「僕が片手でティッシュを要求した時はどうやって渡してくれた?」
その時ティッシュを渡した児童に聞く。
「片手で渡したかもしれないです……」
「うん。君は片手で渡してくれた。もう片方の手は口元を押さえていたよ」
笑ってたんでしょ、のエレン先生の言葉に、彼ははにかんだ。
「僕が手を揃えて要求した時は?」
その時の児童に聞く。
「両手で渡した」
「どうして?」
「うーん。なんとなく。無意識に」
そうだよね、とエレン先生は満足げだった。
「友達との絶交話をしていた時の僕の顔、どんなだったか覚えてる人?」
全員が手を挙げる。ひとりの女子児童と目を合わせる。
「教えてよ、どんなだった?」
「こんな顔です」
ぐにゃっと顔を歪めて、悲しそうな顔を作る彼女。
まじまじ見つめて、エレン先生は言う。
「僕そんな顔してたんだ。知らなかったよ。だけど君も、あの時そんな顔をしていたよ」
彼女は納得し始めたのか、何度も頷いていた。
「僕が下ネタを思い出していた時は、どんな顔だった?」
ひとりの男子児童と目を合わせる。
「こんなんでした」
ワッハッハ!ワッハッハ!と派手に再現し出した彼に、どっと笑いが起きる。
エレン先生もたくさん笑って、そしてこう言った。
「あの時の君も、そんな感じだったね」
「君たちのまわりには、君たちと同じ行動をしたり、同じ表情をする鏡で溢れているんだよ。君が手を振れば振り返してくれる。君が笑えば笑い返してくれる。喧嘩の時に相手の怒った顔がムカつくな、なんて感じる時は相手もそう感じているからね。君も今目の前の相手と同じ顔をして、相手を怒らせているんだ」
ふんふんと皆が首を振る。
「言葉もそうだよ。ありがとうと伝えて、こちらこそありがとうと言われたことがない?僕はある。でもそれは、僕がありがとうと言わなければ、返ってこなかった言葉なんだ。逆になんだよって友達に言って、そっちこそなんだよって返された経験もある。面白いよね、まるで鏡だ」
エレン先生は児童ひとりひとりの顔を、ゆっくりと見渡した。一番後ろの席の僕と最後に目が合って、にっこり微笑んでくれたから僕も微笑んだ。
「今日の君たちは、僕の最高の鏡だったよ」
腕時計に目を落としたエレン先生は言った。
「よし、じゃあ鏡の話はこれでおしまい。今日は鏡を買いに行かないと。明日ハニーと会うんだ」
席を立って、扉を開ける。
振り向きざまに、こう言った。
「ライフ イズ ジャスト ア ミラー。これ、聖書の言葉。意味が分かった子はまわりの子に教えてあげてね。世界中の子供たちが笑えば世界だって笑うんだから」
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