【短編小説】5分間のその中で。
それは、見紛うことなく私そのものだった。ふわりと優しく微笑む、幸せそうな自分。私は私が描かれたその絵に目を奪われた。
『今日から私は』
その絵にはそんなタイトルが添えられていた。
東京の一等地にある、美術館内の一画。自身の肖像画を発見した私の足は止まった。
「え、これ私……」
いつの私だろうか、つい最近のものにも見えなくはないが、ならばどこで描かれたものだろうか。記憶は一切ない。
馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、私の記憶は五分ともたないのだ。五分前のことは、全て頭から綺麗さっぱりと消されてしまう。
事故が原因だとか医者に言われたような気もするし、それか病気だとか言われたような気もするが、とにかく十五歳以降の記憶は何もない。受験勉強を必死にしていたことは覚えているのだが、果たして私は希望していた高校へ進学できたのだろうか?いや、もしかしたら高校という場所にさえ行っていないのかもしれないけど。
私の外出には、いつも介助員が伴う。田中さんだったり佐藤さんだったり、大体はおばちゃんが多いわねえと、今日の介助員を務める斎藤さんがつい先ほど教えてくれた。
「まあ。綺麗ですねえ、小雪さんの笑顔」
私と同じ絵を見つめ、斎藤さんは言った。
「まるで本物のモデルさんみたいですね」
私はその言葉に苦笑いで返す。何故ならば、私はこんなにも幸せそうに笑う自分を知らない。
五分間しか記憶を保てない脳をもつ。これは悲劇映画の話ではなく、現実の私に起こった惨劇だ。そんな酷い世界で生きる私を映す鏡に笑顔などあるはずもなく、四角い枠の中の私はいつも死んだような目をしている。
まあ、その『いつも』も私は覚えていないから、これは単に想像でしかないけれど……そうに決まっている。
「今日から私は……なんなんでしょうか……」
だからこのタイトルの続きがものすごく気になった。
「この日の私になにかが起こったから、こんな嬉しそうに……」
今日から私は、今日から私は──
たったの五分間で、私が笑顔になったその理由とは。
「知ってますか?このタイトルの続き」
私の介助が初めてではなさそうな斎藤さんならば知っていることもあるかと思いそう聞いたが、彼女は朗らかな笑みを返すだけで、何も教えてはくれなかった。
視線を絵画に戻す。
画家名は、藤田ロイジ。小中学生時代の顔ぶれを振り返ってみるが、そんな名前の者はいない。ならば通ったかどうかもわからぬ高校時代の友人か、はたまた最近知り合った人間か、それとも金銭を交わしてモデルを請け負っただけの、もう二度と合わないような関係の人か。
ああ、途方に暮れる。思い出すことなど到底無理だと理解しているくせに、必死に記憶を辿り寄せようとする自分が嫌になる。
はあっと色のない溜め息を、目の前の自分に振りかけた。満足げに笑い、ほんのり頬を赤らめて。まるで恋する乙女のようにも見える自分。
「恋する乙女、それはないな……」
そう呟けば、またもや勝手に抜けていく長い息。
誰かを愛し愛されるには、それなりの時間が必要だと知っているから落胆してしまう。
はじめまして愛しています。
など、ナンパでだって使えない台詞。たった五分間で恋に落ちる可能性など皆無に等しい。だからきっと、私はこのまま一生ひとり。寂しく人生を終えるのだ。
「斎藤さん、私って今、何歳ですか?」
ふとそんな問いを投げかけたのは、今ここに存在しない親の生死を懸念したから。
「小雪さんは三十八歳ですよ。ああでも、明日のお誕生日で三十九歳になりますかね」
「そう、ですか」
私がアラフォーなのであれば、両親は六十代か七十代か……生きていても、他界していてもおかしくはない年齢だ。
「さ、斎藤さん」
「はい」
「あの、ええっと……」
私の親族の誰かが雇ったであろう彼女に尋ねれば、おそらくその答えを知ることができる。あっさりと「ご健在です」と言われるかもしれないし、気まずい雰囲気にしてしまうかもしれない。
「あの、私の親って……ええっと」
だから、怖くて聞けない。
「な、なんでもないですすみませんっ」
今ここで万が一の方の正解を言われてしまえば、きっと私は泣くだろう。静寂に包まれたこの美術館でも人目憚らず、わんわんと赤子のように。そして次の五分が訪れた時、絶望から解放された私の感情は戸惑いからスタートする。どうして自分の目から涙が溢れているのか、何故鼓動がこんなにも速いのかわけのわからないまま、また無意味に記憶を辿り寄せて終わる五分間。そんな惨めな自分を想像すれば、今にも泣きそうになった。
柔和に私を見つめる斎藤さんはこんな私に慣れているのか、それ以上を聞いてこなかった。ただ温もりあるその手で私の背中を摩り、「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
カフェテリアにいた。白いカップの中には可愛い子猫。これはラテアートというものらしい。
「ここのカフェの店員さんも、美術館に出品できそうなほど絵が上手ですねえ」
自らを斎藤と名乗った介助員は、自身のカップの中を覗きながらそう言った。
「見てください小雪さん。私の方は見事な薔薇です」
ほら、と受け皿ごと面前に差し出され、大きく頷く。
「ほんと、すごく上手ですね。飲んでしまうのがもったいないくらい」
「そうですねえ。このまま写真でも撮って、先ほどの美術館へ飾りに行っちゃいましょうか」
「先ほどの美術館……?」
斎藤さんの言った意味がわからなくてリピートすると、彼女は鞄から取り出した何かをテーブルの上へ置いた。
「はい。私たちは今日、この美術館を見てまわったのですよ」
彼女が取り出したもの。それは美術館のチケットだった。遅れて出されたパンフレットをぱらぱら捲って眺めてみるが、無論、私の脳が覚えている絵などひとつもない。
そっと閉じて、卓へ戻す。
「そうだったんですか。私、美術に興味なんてあったんですね」
小中学生の頃はどちらかといえば外で遊ぶことが好きで、塗り絵もお絵描きも苦手だった。そんな私が美術館へ足を運ぶようになったなんて驚愕の真実。しかし手元を見ればあの頃にはなかった皺がたくさん刻まれていて、歳をとったことに気付く。年齢を重ね大人になれば趣味も変わるのだろう、とすぐに納得した。
子猫にそっと口をつけ、離して聞く。
「楽しかったですか?美術館」
すると斎藤さんは、嬉しそうに微笑んだ。
「とても素敵でしたよ、小雪さんの肖像画」
それは美術に興味があったことよりも衝撃的な真だった。
「私の、肖像画……?」
「はい。小雪さんが描かれた絵です」
「私、モデルの仕事でも……?」
「いいえ。そうではないんですけどね。ああそうだ。チケットを見せれば再入場も可能だそうなので、帰り際にもう一度寄ってみましょうか」
混乱する私の前、態度ひとつ崩さずに物事を進めていく斎藤さんは、記憶を失くす私に慣れている。おそらく彼女はもう何遍も私の身内からの要望で、こんな私とお供してくれているのかもしれない。
身内。そんな単語を一度思い浮かべてしまえば、募る不安。
「あ、あの斎藤さんっ」
「はい、なんでしょう」
「私って今何歳ですか?」
「明日で三十九歳です」
「そ、それじゃあ私の親って──」
元気ですか?そんなことを聞いて、万が一でも絶望したくない。
「ご、ごめんなさい。なんでもないです……」
俯きながらコーヒーで口を塞げば、柔らかな「大丈夫ですよ」が目の前から聞こえてきた。
美術館には恋する乙女のような自分がいた。照れると共に、ほんのりとショックを受けるのは生身の自分。
私が恋をするなんて無理なのに。
藤田ロイジの目は節穴なのだろうか。無表情の私が藤田ロイジにはこんな風に見えているのだとすれば、病院にでも行った方がいいと思う。魔法でも使わない限り、私からこの笑顔は引き出せない。
「今日から私は」
タイトルには肝心な部分が書かれていなかった。
「今日から私は……なに?」
この日の私に何があったのか。その視線の先に何を見ているのか。それ等を知ることができれば、この表情をした時と同じ気持ちになれるのだろうか。
試しに楽しいことを想像してみた。昔家族で訪れた遊園地で、スタンプラリーなんかをしたことを。
家族。そういえば今ここに家族がいない。両親は元気だろうか。
「あの、介助員さんっ」
「斎藤です」
「ああ、すみません斎藤さん。あのっ」
その時ピンポンパンとチャイムが鳴り、館内に流れたのは閉館のアナウンス。それを最後まで耳にしているうちに、聞く気は失せた。
「なんでもないです……」
「そうですか。じゃあ小雪さん、そろそろ帰りましょう」
家へ帰れば彼等はいる。母も父も、「おかえり小雪」と言ってくれる。それだけを固く信じて、私はその場をあとにした。
「ここが、私の家ですか……?」
名も知らぬ駅の改札を抜けた時点で違和感は感じていたが、幼き頃の記憶と似ても似つかない一軒家の外観に、私は目を丸くした。
「引っ越したのですか?」
斎藤さんという介助員にそう聞くと、彼女は「はい」と首を振る。
「一昨年あたり、購入されていましたよ」
「小学校の時に家を建てたのに?うちの両親ってば宝くじにでも当たったんですかね?」
「いいえ。購入されたのは小雪さんの旦那さまです」
「だ、旦那さま……?」
ふと目に入った玄関先の郵便受け。そこには『藤田』の文字があった。
「藤田……?」
首を傾げた私には、斎藤さんが美術館のチケットを見せてきた。
「藤田ロイジ。今日私たちが訪れた美術館に飾られていた小雪さんの肖像画を描いた人が、小雪さんの旦那さまなのですよ」
美術館、肖像画。次から次へと投入される新しい情報の処理に手間取っていると、斎藤さんが慣れた手つきで鍵穴に鍵を入れて回した。
ガチャッと音が鳴れば開く扉。
「ただいま戻りましたあ、ロイジさーん」
さあ、と彼女に促されて入った石張りの玄関。そこから見える階段からとんとんと降りてきたのは、四十代くらいの男性だった。
彼の手には、毛先に色の付いた筆が一本。頬にもその色と同じインクが一筋伸びている。まるで本物の画家みたいだな、と私は思った。
「おかえりなさい小雪、斎藤さん。今日は同行できなくてごめんね。どうしても明日までに仕上げたい絵があって」
「承知しておりますよ。明日は特別な日ですものね」
「こら斎藤さん。小雪にはまだ内緒なんだから」
「ああ、そうでしたそうでした」
私が靴を脱ぐ間、交わされたこんなやり取り。スリッパに足を忍ばせて、ひとり会話についていけない私が身の置き場に困りおろおろしていると、斎藤さんがロイジと呼んだその男性がおもむろに私の手をとった。丸く大きな瞳で見つめられ、息を飲む。
「おかえり、小雪。僕は君の夫のロイジでここは僕たちふたりの家だ。愛してるよ」
あなたは誰で、どうして私がここへと帰ってきたのか。全ての謎が払拭される言葉で頭がクリアになるのと同時に、突然された愛の告白で燃えていくのは顔。「え、え」とおかしな挙動をしていると、彼は再び「愛してるよ」と告げてきた。
「わ、私はあなたと結婚したのですかっ……?」
「そうだよ」
「私はあなたを愛して、あなたも私を……?」
「そう」
「だ、だってそんなっ。たったの五分なのにっ」
信じられなかった。まさか自分が僅か五分で恋に落ちたなんて。
信じられなかった。まさかこんな不都合だらけの自分を愛してくれる人が現れたなんて。
しかしこの胸の高鳴りがもう、その答えだと思った。
彼に導かれ、上がる階段。二階に着くまでに彼は言う。
「ああそうだ。小雪のお父さんとお母さんは今も元気で、小雪が昔住んでいたあの家に今でも暮らしているよ」
「え」
「だからなんの心配もいらない。またすぐ会えるからね」
両親が健在かどうかなんて心配していなかった私だったが、彼が私にどうしてこんなことを教えてくれたのかと予想すれば、感謝が募った。
おそらく私はもう幾度となく、両親の生死を確かめたり確かめたがったりしたのだろう。
「ありがとうございます、ロイジさん」
彼の背中にそう呟くと、彼は「ロイジでいいよ」と笑っていた。
「ここが僕の仕事部屋。汚いけど驚かないでね」
二階のとある一室。そこの扉が開かれた瞬間、私は口元に手をあてがった。
「うわあ……」
顔、顔、顔。そこには私の笑顔が所狭しと並べられていたから。
私はその中でも一番幸せそうな私に近寄った。
「私……こんな風に笑えるんですか……?」
その絵の中の私は、まるで恋する乙女のようだった。愛しい誰かを眺めているような、そんな愛に満ちた顔をしていた。
肩に置かれた温もりで、横を向く。
「その絵は美術館で飾られていたものと同じ日に描いた絵だよ。タイトルは『今日から私は』。僕たちが入籍した日に描いたんだ」
「入籍……ロイジと結婚した日……」
「そう。それから小雪は毎日こんな風に僕へ笑顔をくれるんだ。だから僕も頑張れる」
今日から私は、愛する人と笑顔で生きていきます。
もしも私がこのタイトルの続きを考えられるとしたら、そんな文章をつけたいと思った。
「ロイジッ」
私がぎゅうと彼の胸へ飛び込んだのは、この人を心底愛おしく感じたから。
「ロイジ、大好きっ」
どこで出逢った彼なのか、付き合うきっかけは何だったのか。たった五分の間でその全てを知ることはできないけれど、それでも今私の瞳に映る彼が全てだから、そんなことは気にならない。
私はあなたを愛している。
幸せに浸れば笑みが溢れた。
私を暫く抱きしめた彼はその腕を緩めると、腕時計に目を落としてこう言った。
「小雪。僕は君の夫のロイジでここは僕たちふたりの家だ。愛してるよ」
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