Not heart to HEART
先日、大学時代のゼミのOB会に参加した。
卒業から10年。1期から今の4年生は24期というから、時の流れを感じずにはいられない。
ここ数年、いわゆるエシカルファッションを好むわたしはその日もシルクリネンのラフなワンピースで、先輩には「そんなシワシワの服しか買えないのか」と小馬鹿にされる始末だが、現役生や20代前半女性の大人びたカチッとした装いを見て、そう言えば自分のあのくらいの時は、背伸びしていたことを思い出す。
年々服装は流行よりも素材や、自分に似合うかなどに焦点を合わせるようになり、人と同じ服はむしろ好まず、どちらかと言えばラフになった。
その辺りの個人差はあれども、10年という月日は何かと人を変えるらしい。
背伸びしたファッションを纏っている点は10年前のわたしにも見られそうだ。
しかし何かが違う。わたしにはなかった何かがある。
1人や2人ではない、なんならば現役生および20代前半の全員そうかもしれない。
彼らたちはプロなのかと思うくらいの立ち振る舞いを持ち合わせている。
人前で話すことに非常に慣れており、10や20歳以上離れた大人と話すことにもまったく抵抗がないように見受けられる。
それどころか、瞬時にその人の名前と特徴を記憶し、その相手に合わせて会話を展開する。
大袈裟に驚き、褒める。
わたしが大学4年生だったとき、そんなことできただろうか、否。
なんなら今もできているのか自信がない。
しかし、正直なんとも言えない違和感と、あまりの前のめりに疲弊する。
相手の気持ちを察するというよりも、とにかく質問をしてくるか、その人にとってきっとこの部分を褒めれば好印象を持ってもらえるのであろうということに特化しひたすらに会話を展開してくる。
つまり同じことを繰り返してくるし、こちらがそろそろこの場を去りたいと思っていることは察していない様子だ。
わたしは芸能人でもなんでもないが、記者会見というものはこんな感じなのだろうかという気持ちにすらなってくる。
疲弊した原因は、わたしのコミュニケーション不足または年齢のせいなのかと思ってみたが、それもあるのかもしれないが、どうも違う。
必死に会話するその向こう側に、他者に気に入られようと必死になっている残像が見えてしまう。心と心で会話している感が一切感じられない。
ここまで「誰かのお気に入り」にならないと今は就職できないのだろうか。
大学生として落ちこぼれてしまうのだろうか。
誰でも受けのいい服を纏い、どんな人にも絶対的に話を合わせ、自分のことは語らず、会話をしていてもその人のパーソナリティが一切見えてこない。
そんな画一化した人間を作るのが大学なのだろうか。
わたしのこの経験はたまたまなのか。
そういう自分も気づいていないだけで10年前は同じだったのか。
彼女達もあと10年したら、エストニアリネンのダラダラしているワンピースを着るのだろうか。
何とも言えない違和感と疲弊感。
もちろん守るべき社会のルールはあるけれど、一人一人が「わたしとは」と常に考え、自ら行動し、能力を発揮できる世の中であってほしいと切に願った満月の前日だった。