梨木香歩「春になったら苺を摘みに」/世界の善を信じられるたったひとつの方法
梨木香歩という作家を知ったのはつい最近のことで、一番最初は作者の「家守綺譚」という、これぞマジックリアリズム!という小説だった。それは屏風の中から死んだ親友がボートに乗って出てきたり、庭の池から河童が現れたりと、そんな摩訶不思議な、それでも筆力によってその光景がありありと浮かぶそんな小説で、なんてすごい作家だと感嘆した。そんな出会いを経て、彼女の英国生活を綴ったエッセイという触れ込みの「春になったら苺を摘みに」を手にとった。
だからこの本の出だしの
「英国に半年間滞在するための家を探していたが、現地で二十日間ほどあれこれ迷った挙句、結局サリー州に住むことに落ち着いた。」
という冒頭の文章に、期待どおりに、彼女の文章力で英国生活を疑似体験できるのだとワクワクしたのだけれど、文庫本の、最初のページをめくったすぐ先に、彼女がかつて出会った「ジョー」という女性についての話が始まり、そこからどうもこのエッセイが長閑なイギリス生活を綴った、そんな単純なものじゃないことに気づいた。
ジョーは、作者が英国留学時代に下宿していた先で知り合った女性だ。彼女との思い出として最初綴られるのはたとえば一緒にベビーシッターをした、なんていうほのぼのとしたエピソードで、ところがジョーがかつて付き合っていた男性、エイドリアン~彼はジョーの小切手を盗んでそれからしばらく行方不明だった~から電話があり、そしてエイドリアンも同じ下宿に身を寄せた話になってからはいささか趣が変わる。
エイドリアンの他人に対する攻撃的な態度や常識からちょっと外れたものに対する興奮をみて作者は強い違和感を感じるのだけど、それに対して作者は何かジョーに口出しすることはない。作者が帰国後、エイドリアンが実は結婚して子どもがいること、それまで犯罪に近いようなことをしてきたことを知ってもその態度は変わらず、その事実を知ってショックを受けただろうジョーに作者が送った手紙は
「・・・みんながあなたのことをどれだけ愛しているか、明るいジョー、誠実なジョー、あなたはいつだって何にだってギブアップしなかった…」
だった。
その後エイドリアンは、すべての事情を知った上で、それでも彼を受け容れ続けた下宿先のオーナー、ウェスト夫人の小切手を盗み換金しようとして失敗、下宿先を出た。そしてジョーは仕事を辞め、彼を追う決断をした。
そんな出来事を通じて、作者はずっとジョーに言いたかった「私はもう、救世主願望は持たないことにしている。」という言葉を思い出す。そしてジョーならきっとこういうだろうと考える。
「そうね、それは賢いわ。けれど人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。」
その後もこのエッセイには様々な「善い」とは言い難い人たちが登場する。我儘三昧のナイジェリア人、地元女性の尊厳を傷つけた脚本家、事実無根の噂を流したナニー、盗み癖がなおらないコソボ難民・・・。そしてどの相手をもまっすぐに受け容れるウェスト夫人と、そしてそれを見つめる作者の心情と、それが「ジョー」の章のように淡々と書いてある。
久しぶりに本を読んで泣いた、カフェで読んでいたから慌てて店を出て、家に帰ってから続きを読んで、存分に泣いた。
彼女たちほど他人を受容できない自分に対する失望と、こんなにも人は他人を受容できるのかという驚きと、そしてそんな人たちへの憧れと畏怖の気持ちが絡みあった、そんな涙だった。
世界の善を信じられるたったひとつの方法、それは信じるに値する人たちに出会うことだ。この本の中にはその人たちがいる。