信じようとしなければ、できるものもできなくない?
「みんなが自律的になるなんてありえない」
「自律的な人材っていうけど、それは理想論でしかない」
対話を増やすっていうのも必要だけど、そのベースとして安心できる状態にする、信頼関係ができるということが大事だと思う、と言ったら、そういう風に言われた。
それは、まず話をする、情報交換する、深い話ができる、議論するとかができるようになってから、その先の話だ、って。
そこまでのことは目指さない、って。
話をしやすくするために安心感は必要だと思うのだけど、安心感は自ら積極的に発言するなど、自律的な人材を育てるためだけだと思うみたい?
自律的な人材をというのが、理想論、と言われるのはわかる。
全員が理想どおりに、自ら手を挙げ発言して動くようになるってことはないだろう。
しかもその「自ら」やることが、会社の思う理想どおりになってないと、求める「自律的」ではないのだから。
だからといって、理想は理想だからできることだけをやるっていうのも違くない?
理想を持って理想を目指した上での、目の前のことについてやることと、理想はおいといてとりあえず目の前のことについてやるのと、同じ目の前のことをやるのであっても、やることが違うだろうと思う。
見てる先が違えば、見えるものも必要なものも変わると思う。
理想を見ておくのは大事じゃない?
そして、理想であって高めの理想になるとは思うけど、理想「論」で非現実なものだとは思わないんだけどな。
「自律的になりましょう」「自律型人材に!」とか言っといて、理想論だ、と、できないような前提でいるのはなんでなんだろう。
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理想があっても、100%理想の状態でないといけないのかっていうのも違うと思う。
目指すのは100%であっても、少しずつ近づけるのでもいいはずなのに。
100%が無理だから最初から別のところを目指すのはなんか違う。
自律的になるように、というのであれば、それぞれの自律性が少しでも高まったら、自律的に動く人が少しでも増えたら、そんなのでいいのではないかと思う。
というか、自律性を高めるとか、そういう言い方もあまり好きでない。
楽しかったり、好きだったり、いいことがあると思ったり、そういう何があれば、人は勝手に動くはずなんだけどな、と思って。
そう思わないことに対して、自らやりたいと思うようにさせる、って矛盾してると思う。
やりたいと思うように「させる」時点で、「自ら」ではなくない?
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そもそも、「みんなが自律的になるわけない」っていうのがどうなの?って思う。
できない、って思ってたら、できないと思う。
できるはず、って信じてるから、できるようになる。
最初から諦めるっていう、できないのは捨てるっていうのは、効率的なのだろうけど。
人ってそんな単純でなく、効率とかで考えられるものじゃない。
ちょっとしたきっかけで変わったり何かの力が現れたりする。思いがけないことも起こる。
みんなそれぞれいろんな可能性を持っていて、いろんな力を持っていて、それが見えてないだけってことは多いと思う。
見えてないままで、できないって決めたり、見ようとしなかったりするのはもったいないと思う。
まわりの人についても、自分のことについても。
私は人の可能性というものを信じている。
信じるから出てくるもの見つかるものがあるとも信じている。
人に関わる仕事をしているから、余計にそう思う。
可能性を信じていなかったら、その人の可能性をつぶしてしまう気がする。
信じている人がいることで、できるようになることもあると思う。
できるはずだからやりなよ、って押しつける信じ方ではなくて、できると思うんだけどな、と待っていたいなと思う。
ほんとに手に入れたいもの必要なものには、何かしようとするものだと思うし、そのとき必要ならサポートできたらいいなと思う。
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