違うと思う自分も自分のひとつ。
自分はこういう人だ、って思っていることで、自分の可能性を狭めてしまうことがあると思う。
自分のことは自分でわかってる、と思う人が多いだろうけど。
外から見た自分のこと、って自分ではわからない。
自分でこんな風に行動しているつもり、とか、自分では他人からこんな風に見えているだろうと思っていることが、実際はどう見えているのかは、人からのフィードバックや人の反応からしかわからない。
ジョハリの窓でいう「盲点の窓」って部分。
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でも、人からのフィードバックや反応って、納得できたりしっくりきたりするものと、全然そんなことない、わかってない!って思うものとあるよね?
そんなことない、わかってない、って思うのは、ほんとに実際とは違うってこともあるとは思う。
それは違うから自己認識として受け入れない、って思うこともあるだろう。
でも、その相手にはそう見えるっていうのも、事実なのだ。
わかってないかもしれないけど、わかってもらえている距離感や関係性ではなくて、その距離感や関係性だとそう見えるということ。
全然違うと思っても、その相手の価値観や世界では、そう感じられるということ。
もしくは、その相手には、そう見えるような行動や態度を、自分が取っているのかもしれないということ。
無意識にでも意識的にでも、人によって言動や見せる部分などを変えていたりすることも多いと思うし、その相手によって引き出される自分がいたりすることもあるだろうと思う。
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だから、人によって言われることが変わったりもするよね?
距離感や関係性の差だったり、価値観や世界の近さだったり、自分の言動の差があるなら、変わってあたりまえなのだと思う。
私も結構人によって場所によって言われることが違って、全然わかってないなぁと思ったり、わかってないくせにいろいろ言われるのもやっとしたりしていたこともあるし、意外でおもしろかったりすることもある。
だけど、違和感あったりもやっとしたりするのも、意外だったりするのも含めて、それも外から見える自分のことなんだよな、と思って。
それはその人との関係性やその人に見せている自分、というところも含めてのフィードバックのようなものなんだなぁとも思った。
違う、わかってない、って思って、でも見せてないところが多いならわかってなくてもあたりまえだし、距離感あってもわからなくてしかたないし、価値観の差があればわかりにくいものだし。
それを超えて知ってもらいたいと思うならわかってもらうような働きかけをしたらいいし、そうでもないならそのままでいい。
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違うと思って受け入れないのでなくて、違うと思う自分も含めて、そう見える自分がいる、って認識していると、自分のことも自分と人の関係性も、また違う見え方になるだろうと思う。
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