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多様性を意識してるうちは多様な世界になれてないよね?
先日、ダイバーシティ担当の方と話していたときに、
「ダイバーシティの中でも女性活躍担当で、女性の課題を中心に考えていくのだけど、結局はそれは男性にも当てはまる課題だったりする」
という話を聞いた。
それはほんとに同感だ。
女性男性という区別に限らず、何かのカテゴリわけをしていても、特定のカテゴリだけの話ではないってことが多々あると思う。
というか、そもそも、カテゴリわけして考えるのがどうなの?って思う。
カテゴリわけしたら、確かに考えやすくなる部分はあるだろう。
共通の何かとかも多いのだろう。
でも、いくら共通の何かがあったとしても、そのカテゴリの中で人それぞれで、逆にカテゴリ超えて何か共通のことだってある。
なので、人をカテゴリわけすること自体が好きでない。
みんなそれぞればらばらなのに。そんなざっくりくくらないでほしい。
統計とか何かするためのデータとして扱っているときに、データ上の分類わけなどとしてカテゴリつくるのはわかるんだけど、人として向き合うときにカテゴリでくくるのって違うんじゃない?って思う。
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そういう意味で、「多様性」を考えるときに、カテゴリで見ているようなのも違和感を覚える。
しかも、よくあるわかりやすい多様性の象徴のようなカテゴリについて考えるという状態になっているようなのが多い気がする。
国籍とか性別とか障害とか。マイノリティな状況にいる方々。
(「マイノリティ」「マジョリティ」って言い方も好きではないのだけど。なんか多い方が有利のようなえらいようなの違うはずなのに。)
そういう、大多数でないカテゴリの人やカテゴリわけもされていなかった人などをを否定したり差別したりせずに多様なうちのひとつとするというのは大事なのだけど、多様性ってそんなことだけではないよね?って思う。
わかりやすい多様性だけを見て、多様性を考えているってなんか違う。
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ちなみに「多様性を考える」という言い方もちょっと違和感がある。「考える」はまだましだけど、それでも、意識して考えないとできないみたいな、わざわざ考える感がある言い方に感じる。
「多様性を認める」だと、上から目線感がすごい。認めなくてもただそうあるっていうことなのに。
「多様性を受け入れる」っていうのも「受け入れる側」「受け入れられる側」があるっていう図に見えて、なんだかなって思う。多い方が少ない方を受け入れるイメージに感じて。それぞれの人がお互いの違いを受け入れるっていうイメージなら対等な感じでいいかも。
そもそも「多様性」ってどういうことなんだろう、とも思う。
みんな人それぞれで違っていて、多様であるのが当たり前なのに。
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それぞれの人がいろんな特徴があったりいろんな事情をもってたりいろんな指向を持ってたりする。
だから、名前もつかないレベルの細かい細かいカテゴリが無数にあるようなもので、名前がつかないから見えてないだけだ。
なのに、たとえば、いろんな国籍の人を雇用しています、性別で差別していません、とかで「多様性を考えている」「D&I(ダイバーシティ&インクルージョン)できている」みたいなのって安易だなって思う。
わかりやすいところをやって、やってるっていう話でなくて、そもそもそんなわかりやすい見えやすいところだけでない多様さがあるよねって、みんなお互い違うから同じ前提で考えない方がいいよねって、お互い意識しあって配慮しあえたらいいのだと思う。
見えないからそれが難しいのだけど。
多様であって違うもので当たり前って、みんながそう思って行動できたら、多様性を考えるとか言わなくてもいいはずで。
だから、多様性を考えるっていうのがいいのではなくて(もちろん考えなくて受け入れないより全然いいけど)、多様性を考えるって言わなくてすむ世界になったらいいなと思う。