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多様ってわざわざ知るものじゃなくない?

障害者の人との交流のためのイベント、みたいなものを見ると、もやっとする。

多様性を謳うために、多様性の推進を見せるために、障害者の方を消費しているように見えてしまう。

そんな意図はないのも、善意なのだろうとも、わかるんだけど、なんか違う!多様ってこういうことじゃない!って思ってしまう。

(障害者、健常者、などという書き方も苦手なんだけど、マジョリティ、マイノリティ、ってカテゴライズもいやなんだけど、ちょうどよい言葉も思いつかずとりあえずそう書く。)



たとえば、学校とかで、身体障害や発達障害などを持っている人も、特にクラスをわけずにいて、お互い知り合いながらずっといる、みたいなのは違和感がない。
障害を持つ方が助けられたりすることはあるのだろうけど、でも人として扱いは対等に感じる。

でも、障害者クラスの子と交流するために、特定の授業のときには一緒なクラスで授業を受けることにしましょう、みたいなのだともやっとしてしまう。
障害を持つ人を、そうでない人たちのために、その人たちが体験したり学ぶために利用している感じがしてしまう。
「こんな大変な人もいるのを知ろうね」「助けたりしようね」「仲良くしようね」みたいな、弱い人に何かしてあげよう感、みたいな。

逆ってきっとないと思うんだよな。
障害者クラスの人に、「健常者クラスと交流しましょう」というようなパターン。
障害を持つ方が持たない方と接することはあるから、必要ないってことなんだろうか。
それがマジョリティとマイノリティの差なのかな。
でも、「存在を知っている」「接することがある」というのと、「相手のことを知っている」「交流する」のは別のことじゃない?



レインボーパレードのような、マイノリティな方にいる人たちが主催で、自分たちを知ってよ!ってイベントをするのは、当事者がしたくてしてるからいいと思える。

でも、マジョリティの側の人たちが、こういう人たちとの交流の場だよ!ってイベントするのは、なんだかなぁって思うんだよな。

それはたとえば、女性ではめずらしい職業についた人が、自分から、女性でもできます!って発信するのと、以前流行った「美人すぎる○○」みたいに、女性では(特に美人な人では)この職業めずらしいよ?すごいよね!って持ち上げて囃したてるのと近いかもしれない。

外側から取り立てるようにすると、逆に、違うことを強調されている感じに思えてしまう。

わからないとどうしていいかわからないし、知らないと何も働きかけることなどもできないから、知ってる方がいいし、知って知り合ってわかることが増えた方がいいとは思う。
だから、イベントとかをまるっと否定したいわけでもないんだけど、でもそれでも、もっと違う形で知り合えるといいのになと思う。

わざわざ知ろうとしなくても、知ってても知らなくても、世界は多様なものだしそれぞれ違っているのにな。

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