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【読書】もう一度会いたい理由~『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』より~

「人間とは何か?」これが人類学の命題であると聞いた時、私は痺れた。ちなみに、お隣の哲学が扱う問いは「人間は何を知りうるか」だそうで、こちらも壮大な問いだ。私は大学1年生の時にこれを教わり、人類学に進む決心を新たにした。サルとヒトを分ける決定的な違いは何なのか。人間特有の要素とは何なのか。人間の「本質」とは何なのかー。それが知りたかった。

「人間とは何か」この限りなく大きな問いに答えるため、「生物としてのヒト」を研究するのが自然人類学、社会や文化を実証的に調査するのが文化人類学というのが、私の大雑把な理解だ。

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他者と死者 ラカンによるレヴィナス  (文春文庫) 2011/9 内田 樹 (著)

内田樹先生によるレヴィナス論。第三章4項「交易と主体」で、アメリカの文化人類学者マーシャル・サーリンズによる”未開”社会の研究が引用されている。「沈黙交易」という経済活動である。以下、P112~116から、省略した形で引用する。

「沈黙交易」は、言語も価値観も違う二つの部族が出会う境界線で行われる。交換相手と交渉することなく、特定の場所に物を置き、相手がそれと「等価」と思われる物と交換するシステムだ。

しかし、見たこともなく、使いみちも分からない品物に対して、どうやってその価値を量ることができるのか? どうやって「等価」な物と交換できるのか? 二つの部族には共通のものさしがないのだ。

それにもかかわらず、人々は交易をやめない。なぜなのか? サーリンズは指摘する。人々は、適切な等価交換が行われたように思われないときに、相手に「もう一度会わなければならない」と感じてしまう。「もらいすぎだからお返ししなければ」。お土産やおすそ分けをいただいた時に、私たちがよく感じることである。

だが、相手からもらった品物の価値が分からないのに、どうやって「もらいすぎ」あるいは「すくなすぎ」と感じることができるのか? 内田先生はこう指摘されます。

交易を動機づけるのは、交換されたものの等価性でもないし、不等価性でもない。そうではなくて、おそらくは交換されたものの計量不可能性なのだ。人々は、交換されたものの「価値が分からない」がゆえに、さらに交易を継続しなければならないという心理的圧力を感じるのであって、「価値が分かった」からそうするのではない。

なぜか「もう一度会いたい」と思わされる人がいる。もう一度会って話さなければならないと思う人。それは、相手から語りかけられたことに対して、自分が充分に返せていないからなのか。自分が語りかけたことに対して、相手から充分に返ってこなかったからなのか。

あるいは、どちらも違うのかもしれない。もしかすると、「もう一度会わなければならない」と思う時とは、相手から「何をもらったのか分からない」時なのではないか。それは単純に「相手の意図が分からない」ということなのかもしれないし、「時が経たないと分からない」というような、視点の大きな話なのかもしれない。

ひと昔まえ、テレビコマーシャルの影響で「プライスレス」という言葉が流行した。いまでも日常会話で「貴重すぎて価値が言い表せない」というような意味で使われている。「あの人ともう一度会わなければならない」と思う時、私たちは実は「プライスレス」を感じているのではないか。

二人の間で応酬された言葉の等価性、不等価性に関わらず、まず最初に語りかけてくれたことに対して。こんなにも違う人間同士なのに、語りかけようとしてくれたことに対して。それこそに、私たちは「プライスレス」を感じているのではないか。内田先生は第三章4項全体を通して、他者への「語りかけ」は「無から有を創造する最初の一撃」であると表現されている。つまり、他者に語りかけることとは、コミュニケーションという永遠に続く運動を「無から創造する」ことなのだ。

ここで、最初の問いに立ち返ってみる。「人間とは何か?」

答えがここにある。無から有を生み出す者。それは神である。それは、「語りかける神」であり、「応答する神」である。コミュニケーションという運動の中に存在する永遠である。

#読書 #内田樹 #他者と死者 #レヴィナス #人類学 #沈黙交易


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