「はなす」ということ
教話(説法、法話のようなもの)のグランプリに出場し、グランプリを受賞させていただきました。「教話」と言っても日頃と勝手が違うため慣れないことではありましたが、当日までの準備はとてもよい経験になりました。ですから、準備期間中に教わったことや意識したことをここに備忘録として書き留めておきたいと思います。
(グランプリの様子はこちらからご覧いただけます。まずは熊谷のパートだけでも結構ですのでご覧ください。)
日頃とのフォーマットの違い
まず参考情報として、いつもの教話との違いについて触れておきます。
いつもの教話を聞いて下さるのは、僕のことをよく知るご信者さんです。背景を知っておられるから、細かい説明をすっ飛ばして話しても伝わるわけですね。うちの宗派の教えや用語についてもご存じですから改めての説明は不要です。一方、グランプリでは僕のことを知る人はいません。来場者は信心がある方が多かったようですが、イベントの趣旨として「うちの宗派を信仰していない、特に若い方に響くお話をしてほしい」ということを伺っておりました。
また、日頃お話しする際には10〜20分ほどの尺でお話しすることが大半です(もっとも、うちの宗派では祭典後に教話があることが多いのですが、教会によってその長さは様々。1〜2時間平気でお話しされるところもあるそうです)。それを考えると、7分という尺はかなりの短尺であると言えます。色んな話題を行き来することは出来ませんからワントピック。しかも、詰め込みすぎると早口になったり、話が飛んでしまったら万事休す。この辺りはグランプリの競技性として受け止めました。
そして、いつもは原稿を用意していません。テーマくらい頭に浮かべていることはありますが「神さま、今日は何をお話しさせてもらいましょう?僕の口を使って良いようにお話しください」とお願いしながら、壇上に立つことが大半です。
これらの内容をまとめるとこんな感じです。以下では、そのようなフォーマットが違うなか、準備期間中にどのようなことを意識したのか、また、教わったのかということについて述べたいと思います。
教話の目的
教話をする目的は何か?一つに絞れればいいのですが、これが絞れなかったり、ブレてしまうとなかなか苦しい。グランプリの「成績」がチラついてしまいますが、そこは二の次だと考えました。今回の様子はYouTubeで発信されることを聞いていましたし、(うちの宗派にかぎらず)信仰心を持つことで感じられるおおらかな心が、特に切羽詰まっている人に伝わってほしいということを目的としました。
教話の聴衆
今回のグランプリに際して事前の顔あわせがありましたが、そのときにコメンテーターのお一人が「『話す』ことは『放す』こと」とおっしゃっていました。自分の口から放たれた言葉は自分のもとを離れて相手の心の中で解釈される、というお話だったかと思います。
営業マン時代に相手の立場やリテラシーによって話し方や言葉づかいを変えることを教わりました。例えば、僕の場合は企業向けのシステムを提案していましたが、ITリテラシーがあまり高くない社長さんなら細かい機能の使いやすさの説明よりは企業全体に与えるインパクトを説明すべきでしょうし、「エクスポート」とか「クラウド」等という言葉は使いません。
笹舟を流すようなもので、言葉を「放す」にしても、沈まぬよう、狙ったところに流れるよう見計らって、言葉を選んでいきます。そのためにどんな聴衆が聴いてくださるのか、その方々はどんな言葉がスッと入ってくるのか、考えてあげる必要があります。
前提の共有
教話で「あるある」な話題は、「日常生活で感じた信心の教訓」や「ありがたいと感じた神さまの(ものとしか思えない)はたらき」ですが、これらのテーマは早々にあきらめてしまいました。僕のことをまったく知らない人たちに自分の身上話をするには前置きが必要となり、7分間の尺だと足りないと思ったからです。
伝わる話をするには前提(文脈と言いかえてもいいでしょう)の共有が欠かせません。ですが、中途半端に説明したばかりに「?」が付きまとってしまうとかえって話が入ってこないと勿体ない。「それなら説明しなきゃいいじゃん!」と開き直ることにしました。
ずっと教話のネタを考えていたとき、昔よく見た若手芸人の漫才・ネタが思い出されました。彼らは子どもの時に流行った遊びや学校の一コマなど、有名人のモノマネ、時々ネタをモチーフにします。これらに共通しているのは誰でも知っていて説明が不要ということです。改めて説明する必要がありませんので、彼らは単刀直入にネタに入っていくことができます。
すでに人気を得ていて日常的にテレビで見る芸人であれば、自身のスキャンダルに触れたりしても笑いになりますが、それは前提を共有できているからこそです。「無名の芸人はパーソナルな情報を共有できていないからこそ、あるあるネタに走るんだな」と勝手に合点を打ちながら、自分もその路線で行こうと誰でも知っている桃太郎のおとぎ話を題材としました。
教話の展開
桃太郎を題材としたところから、「もしもこうだったら…」と本来のストーリーを逸脱しつつ、自分たちの筋書きが当たり前ではないことや幸せになるための秘訣を確認しようという教話の骨格が出来てきました。しかし、教話の展開については数人の先輩に原稿をチェックしていただきながら修正をおこないました。
僕は教話の終盤で一気に信仰の話にまとめ上げていくことが多いのですが、これはあまり一般的なフォーマットではないようです。しかも、桃太郎のたとえ話が続くため「一体何の話なんだろう?」という疑問符で話が頭に入ってこないかもしれないという指摘をいただきました。そこでたとえ話の区切りごとに信仰的な意味をおさえるという方法をとることにしました。
また、緊張しいなので序盤にリラックスした空気を作っておきたいということも思っていました。ウケを狙ったボケはあまり響きませんでしたが(スベったときの想定もしていましたので肝を冷やすことはありませんでした笑い)、なるべく早い段階で空気をほぐせたのはよかったと思います。
これは後から教えてもらった話ですが、書き物は自由に戻って読み直すことができますが、その場で聞いている話はそれができません。教話は時間に沿って一方通行ということです。そうすると起承転結の「転」によって聴衆を引き込みやすいのだそうです。僕の場合は、起承転結をあまり意識していませんでしたが「ところで桃は勝手に流れてきたのでしょうか?」という部分が「転」だったようです。この視点の転換は思いつかなかったと言ってくださったのは、天に昇るような褒め言葉でした。視点の転換を効果的に使うことができれば、教話を印象づけるスパイスになるということでしょう。
続・言葉選び
原稿が出来たら声に出して読みます。たまたま読んでいた『安倍晋三回顧録』(政策的指向に食い違いはあるものの、長期政権を実現した手腕が気になっていました)に、安倍元総理があるスピーチを前に四十回(だったはずです)の練習を行ったという記載を見つけてしまい、折角の機会だしやってやろうじゃないかと何度も何度も繰り返し読みました。一言一句読み上げる、細かいところは構わず読み上げる、原稿なしに話す、本番前には恐らく四十回に達していたと思います。
何度も声に出すことで言い回しが変わってきます。僕は滑舌が良い方ではありません。何度も声に出して読んでいるうち、噛みやすい言葉は別の言葉に変わっていきます。くどい説明は省かれていきます。河原の石の角が削れていくように。とても非効率的で、とてもフィジカルな工程ですが、不可欠な工程だったと思います。
話し方
僕はボソボソ話しがちなのですが(学生時代には留学生に「熊谷くんはもっとハッキリ話したほうがいいよ」と日本語で指摘されたことがあります笑)、最近は寺子屋で子どもたちを前に話すのが日常でしたから声量には自信を持っていました。…が、最初の原稿を吹き込んでチェックしてくださる先輩にデータを送ったところ、話し方がボソボソしている旨を指摘されました。話す内容によって自分のなかでスイッチがあったのかも知れません。熱っぽい話し方には抵抗感があったものの、聞き取りやすくはあるべきだと思い、そこは意識するようにしました。
教わったのは、自分が十分だと思うよりもう少し大きく口を開くこと、語尾までハッキリ声に出すこと、腹式呼吸で声を出すことでした。日々の教話からこの辺りは気をつけることにしました。そのうえで、間の取り方、強弱のつけ方、トーンの変化、「え〜」や口癖をなるべく矯正することも意識しました。色んなスピーチアドバイザーの方の動画を観ましたが、中にはやり過ぎてワザとらしさが鼻につく方もいます。聞き取りやすさには配慮する必要がありますが、あまりにテクニックに走っては胡散臭く感じられるため、最終的には心を込めて話すことに集中しました。
口に真を語りつつ心に真のなきこと
うちの宗派には、自分たちを戒める言葉の一つに「口に真を語りつつ心に真のなきこと」というものがあります。どれだけ美辞麗句を並べ立てても、自分の思ってもいない言葉であっては申し訳が立ちません。自分の行いと食い違っていては説得力がありません(言行一致)。「教話」ではありますが、僕のようなペーペーの教師が教えようとすれば嘘や薄っぺらさが出てきます。教えられるような徳者になれたらとは思いますが、今は「教えにまつわる話」の位置付けで「一緒に頑張りましょうね」というエールのような教話ができればと思います。