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いつもの三谷幸喜と新しい三谷幸喜~『スオミの話をしよう』感想(ネタバレあり)〜

(以下、映画『スオミの話をしよう』の感想ですが、物語の核心に迫るようなネタバレがあります。ご注意ください。また『オケピ!』『刑事コロンボ』の「死者の身代金」の内容にも一部触れているので、そちらもご注意ください)

内容は、適宜、加筆・修正します。



『スオミの話をしよう』は三谷幸喜の5年ぶりの監督映画ということですが、見終わってみると、今までの三谷幸喜らしい作風が全体に見えつつも、新しい三谷幸喜の側面が垣間見えるような部分もあるという、とても興味深い一本になっていました。


以下、詳しく感想をお話しします。



三谷幸喜らしい作風


まず、今作にあった「今までの三谷幸喜らしい作風」について見ていきたいと思います。

1.舞台劇のような演出


最初に印象に残るのは、やはり「長回しを多用した舞台劇のような演出」でしょう。三谷監督第一作『ラヂオの時間』で既に見られたこの特徴が、今作でも随所に登場します。三谷は『ラヂオの時間』の冒頭の長回しシーンについて、

ワンカメの長回しで入れ代わり立ち代わり主要登場人物が現れるけど、実はそんなにカメラは動いてない。でも縦横無尽に動いてるように見える撮り方をして、俳優さんの動きも綿密に決めて撮った。

三谷幸喜 松野大介『三谷幸喜 創作を語る』、講談社、2013年、117ページ


と話しています。『スオミの話をしよう』においても、寒川邸でのショットはほぼ人物の目線の高さに落ち着いており、奇抜なカットもカメラの激しい動きもあまり見られませんが、人が広い部屋を動き回ることによって、不思議な躍動感が生まれています。監督の撮影日誌によれば、リハーサルの期間を長めにとって芝居を固めているとのことで(『ラヂオの時間』撮影時にもリハーサル室で俳優の動きをつけてから撮影に臨んだそうです)、そういった「舞台」のような制作方法が、そのまま三谷映画が持つ「舞台のような映画」という特徴に繋がってることは間違いありません。さらに、『THE有頂天ホテル』ではホテル、『ザ・マジックアワー』に至ってはひとつの街と、豪華なセットが見ものだった三谷映画において、(現実離れした豪邸とはいえ)ほぼ一軒家の中だけで話が進む今作は、過去の監督作と比べてもより「舞台劇」の色を強めた作品とも言えると思います。



2.ストーリー


ストーリーも、過去の三谷作品でお馴染みの要素が多く詰まっています。
限定された空間で複数人がああでもないこうでもないと議論する様子は、『十二人の優しい日本人』や『その場しのぎの男たち』など挙げたらキリがないほど、三谷が他の多くの作品で描いてきた風景です。
スオミを巡って男たちが対立する様子も、三谷が作品で好んでよく描く三角関係(例えば『古畑任三郎』の古畑と今泉と西園寺、『今夜、宇宙の片隅で』の主役三人、などなど)が、人数が増えて多角形になったと考えれば三谷作品によくあるシチュエーションの変化形なのだと理解することができます。


3.オマージュ


三谷幸喜の作品には、様々なオマージュが織り込まれているのが特徴ですが、今作にも、過去の名作からの影響が数多く見受けられます。
冒頭の「カーテンを閉めて」と指示を出すくだりや、犯人からの電話を待つシーン、身代金を出そうとしない寒川しずお、などは黒澤明監督の天国と地獄』でしょう。そして、三谷の作品でよく見る『刑事コロンボ』の要素(『古畑任三郎』は言わずもがな、『ステキな金縛り』では深津絵里が鼻歌を歌うシーンがコロンボが鼻歌を歌うシーンに影響を受けています)も、今作のミステリー部分で大きくフィーチャーされています。


主に後半で描かれる

1.セスナ機での身代金の受け渡し
2.受け渡し後の空のカバンを巡る推理


などは、ほぼ『刑事コロンボ』の「死者の身代金」というエピソードから引用した設定です。ラスト近くの謎解きの部分は「死者の身代金」を見ていると思わずニヤリとするような仕掛けが施されており、こういった点を楽しめるのも三谷作品ならではと思います。


新しい三谷幸喜


続いて、「新しい三谷幸喜の側面」について見てみます。

1.女性の描き方


真っ先に挙げたい点は、「女性の描き方」です。今作から劇的に変わったというわけではないですが、近作の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』で見られた「過去の三谷作品での女性キャラクターとの違い」が、『スオミの話をしよう』でもより深化した形で表現されていたように感じます。
三谷幸喜の過去のドラマや舞台を今の視点で見ると、女性の幸せを「結婚すること」に限定したような描き方だったり、「女の敵は女」のようなステレオタイプに落とし込んだような関係性が出てきたりと、かなり違和感を覚えてしまう描写が多いのが正直なところです。
しかし、『スオミの話をしよう』では、そういった描き方を極力避けているようです。
それは、今作のラストで歌われる楽曲「ヘルシンキ」と、三谷の過去作であるミュージカル『オケピ!』の中の2曲「サバの缶詰」と「私を愛したすべての人へ」(もちろん2曲とも三谷幸喜の作詞)を比べてみてもよく分かるところです。

「サバの缶詰」は、劇中で夫と別居することになりそうな戸田恵子演じるヴァイオリン奏者が、自分の好きなもの(【洗い立てのシーツ】や【ふかふかの枕】や【サバの缶詰】など)を並べ上げる歌ですが、歌詞の中の【一人で生きることの苦しみ】や【話す相手いないことの悲しみ】といった節から分かるように、ストレートに自分の好きなものを挙げていく幸せな歌と言うよりは、結婚生活を失うことの寂しさを感じさせる歌です。
「私を愛したすべての人へ」を歌う天海祐希(再演時)演じるハープ奏者は複数の男に言い寄られている人物ですが、歌の中では、誰彼愛を打ち明けられても【誰も愛せない】ことの苦しみや悲しさを吐露しています。
そして、今作の「ヘルシンキ」。
この歌を歌うスオミは、上記の「サバの缶詰」と「私を愛したすべての人へ」を歌う2人と同じような境遇(複数人から愛を受ける、結婚生活が破綻する等)の持ち主ですが、「ヘルシンキ」はこの2曲と全く違う歌になっています。例えば、「サバの缶詰」と同じように自分の好きなもの(ヘルシンキ)について歌っていますが、そこには悲壮感は全く感じられません。以前までの三谷作品であれば、一見楽し気な曲に聞こえても、「まあ、ヘルシンキに行っても本当はしょうがないんだけど・・・。真実の愛を見つけられなかったから・・・。」みたいな裏の意味を入れ込んできそうですが、今作では、スオミの混じりっけのない「ヘルシンキに行きたい!」という思いと希望が真っすぐに伝わってくる演出になっています。そして、【皆 私を愛してくれた だから私も愛してあげた】と打ち明ける歌詞は、「私を愛したすべての人へ」の【誰かに愛されても 誰も愛せない】という歌詞と真逆です。180度違うと言っていいでしょう。この曲から浮かび上がってくるスオミの人物像は、恋愛至上主義ではなく、自分の欲望に忠実であり、主体性があるというものです。『オケピ!』の登場人物たちにはない特徴です。『オケピ!』だけでなく、例えば『古畑任三郎』の女性犯人たちなど他の作品でもあまり見られなかった人物像であり、明らかに以前の三谷作品の女性像とは違うものを感じます。
加えて、スオミと宮澤エマ演じる薊がシスターフッドと言うべき連帯を作り上げている姿も印象に残ります。


2.男性の描き方


また、女性だけでなく、男性たちの描き方にも三谷の変化を感じました。今作では、「有害な男性性」を批判的に描いているように見えますが、これは過去の三谷の作品ではあまり見られなかったものです。
本作に登場するスオミの5人の夫は、誰一人としてスオミと対等な関係を築いてはいません。
西島秀俊演じる草野は、劇中では「神経質」と言われていますが、その実態はスオミに対してマンスプレイニングを行い、スオミの行動や決断を否定して自分の思い通りにしようとする人物です。
松坂桃李演じる十勝も、自分の決断にスオミが半歩下がってついてくるのが当然だと言わんばかりの言動を見せます。
坂東彌十郎演じる寒川は、スオミをトロフィーワイフとしてまるで自分の所有物のように扱っています。
遠藤憲一演じる魚山と小林隆演じる宇賀は、一見するとスオミに献身的に優しく接しているように見えますが、その関係はそれぞれ「教師と生徒」「警察官と逮捕者」という一方的な権力構造を利用して作り上げたものに過ぎません。
そんな彼らを三谷は、ユーモラスな表現で包み込みながらも、スオミの気持ちをそっちのけで口論する様子を通じて、否定的に描いていると思います。男たちの姿が、スオミと薊がソウルメイトとして協力し合う様子とは対照的であることからも、それは明らかです。

これからの三谷幸喜


以上のように、従来の「三谷幸喜らしさ」を踏襲しながら三谷ファンを納得させつつ、新しい(『鎌倉殿の十三人』以降の)三谷幸喜の視点を取り入れて新鮮味も打ち出すことによって、後から振り返った時に「あれが三谷の監督映画のひとつの分岐点だった」と言われるような映画に『スオミの話をしよう』はなっていたのではないか、と思います。

次回作で、三谷幸喜はどんな「変化」を見せてくれるのか、今から楽しみです。

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