色々な自分を受け入れるということ〜ペルソナの固定化を避ける〜
タイのマイペンライ精神
先日タイに行ってきたのですが、この国の特徴はなんといっても「マイペンライ(大丈夫)」精神です。なにごとも「マイペンライ、サバーイ(大丈夫、気楽に行こう)」と楽天的に向き合うマインド。
このガチなネアカポジティブ(?)はなかなか日本人には馴染みなく、タイではビジネスシーンでもこんな調子なので、現地の駐在が長いと日本で働けなくなるなんて話もありますw
タイではこんなマイペンライ精神が大地から滲み出ているのを感じたりして、たっぷり影響を受けて帰ってきました。
なぜか東京で失われるマイペンライ精神
ところが、帰国便の飛行機で羽田に着くと、スッとこのマイペンライが抜けて身体が重くなったような気がします。そう、あの几帳面で細かくてめんどくさい我が国に帰ってきてしまったのですw
もちろん日本はこの几帳面さがあるからこそ、安心できる良質な品質のモノやサービスがある…という面もあるのかも。だからどっちかが良いというわけではありません。でも、ずっと几帳面な雰囲気ばかりでいたらしんどくないですか?
「ペルソナ」を固定化してはいけない
さてユング心理学では「ペルソナ」という概念があります。要は、社会と折り合いをつけるために"仮面"をつけて演じる自分自身のキャラクターのようなものですね。(そんなコンセプトの有名ゲームもありますね、私もプレイしました。)
社会と折り合いをつけるということは、当然ながら本来の自分を大なり小なり抑圧するということも意味します。
例えば先ほどのタイとの比較で言うと、日本社会は「几帳面」というようなペルソナ、つまり仮面を求められがちということかもしれません。本来の自分がそうでなかったとしても!
このペルソナはジェンダーなんかでもすごく顕著です。例えば女性はケアする人、受け止める人、などといった役割を求められがちです。一方で男性もマッチョイズムというか、肉体的・社会的強さや感情に左右されない(ように見せる)役割を求められてしまいます。
これらが本来の自分自身と一致していれば問題ないかもしれませんが、なかなかそうもいきません。そしてあまり一生懸命に他者から求められた「こうあるべきだ」という仮面を被り続けていると、必要な時にもそれが取れなくて苦しむことに繋がりかねません。
「自分らしくない」自分も受け入れる
こういった抑圧されたものがあまりに大きすぎると、自我の制御を超えた行動として現れるなど、その人をとても困らせる問題となってしまうことがあります。
特に男性間で強い同調圧力の中で「男はこうあるべき」という仮面に同化しすぎると、内面に本当は存在する女性的な自分自身(これをアニマと言います)が未発達となり、無意識にある意味で差別的な女性像を目の前の現実の女性に投影してしまう、というようなことが起こります。※もちろんその逆、女性による無意識の男性像の投影も起こりえます。
それを避けるためにも、普段の"仮面"とは異なる自分にも向き合って受け入れていくプロセスが、大人の成長には必要です。
その自分らしさ、何かによって押し付けられた仮面だったりしませんか?
年齢、職業、性別、人種、学歴、そういった外面的属性から暗に人に求められていませんか?
自分が本当に望んでいること、感じていることはなんでしょう?
もっとよい折り合いの付け方が、あるかもしれません。