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東浩紀「訂正可能性の哲学」
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「観光客の哲学」の姉妹編ということで。相変わらず表紙が可愛いです。深夜に起きていると、必ずと言っていいほど4時44分のタイミングで時計を見てしまうのは、なんかの呪いですかね。そんなことを思っているタイミングでペットボトルが「パンッ」と鳴り響き、エアコンが「ブーン」と鳴りました。陰謀論まであともう一歩です。
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「家族的なものとその敵」
観光客の哲学で強調した「友と敵の観念的なバトルから、観光客的な連帯、そして家族へ」という主張をなぞりながら、観光客と家族の議論を前回に引き継いで、今回で接続を行うことが目標。
コロナ禍で2つの概念も変わった。家族は閉鎖的で、教育格差の原因で、孤独で悪いイメージから、「皆さんおうちゲームをしましょう」へ。家族とは思想界では伝統的に見てもイメージが悪い。例えば、家族は束縛であり、良い妻?良い家庭?そのような固定概念に縛られたくはないと、「お一人様社会」を推奨する上野千鶴子のようなフェミニスト。
プラトンも、私的所有や伝統的結婚感や家庭感への疑問を抱く。子も公共的であるべきだとする。私的所有はなく、家族に閉鎖的に育てるのではなく、国家が育てるものであり、公共性を前提とせよと。
空想社会主義者と呼ばれるシャルル・フーリエも、人類は単婚→多婚→全婚へと進展し、男女の双方が複数の配偶者を持つ世界が訪れるという、ユートピアを構想する。そしてエンゲルスも、「公共性には家とかまどはだめ」だとする。
ただし、20世紀のディストピア小説では、そのような公共性が、監視と合理のディストピアとして書かれ、そして恋愛や性愛という「純粋で私的な愛」がその抵抗と成される。
伝統的には、家族は私的で自分勝手であり、公共性と開放性による人間関係の包摂を肯定するのが通奏低音である。
カール・ポパーはプラトンの国家観を、ソクラテスをねじ曲げて閉鎖性と公共性を肯定する全体主義とする。このプラトン的国家思想はナチにも影響した。だがプラトンは家族や血縁を削いで、能力で選別をし、人々は国家に注ぐべきとの議論をしている。その意味では開放性だが、ポパーは閉鎖性と見なす。
ヘーゲルは、家族とは閉ざされて愛に満ちた私的な領域だが、市民社会は公私がごっちゃで、他者は自分の目的を叶えるための手段である領域とする。この閉鎖性と開放性の止揚(対立概念を高次において統合すること)として国家を見出す。つまり国家への贈与をすることが人間であると。ポパーはこれも部族的だと嘲笑する。
補足:ポパーとは、科学哲学において功績を残した。科学とは、論理的体系性でも、経験的実証性でもなく、理論が操作概念(仮説を実験や調査をするために、抽象的な理論を具体的命題に操作したもの)によりなんらかの具体的な予測がなされ、反証可能性が成されるべきであり、それが科学であるとする。つまり真理とは、反証されてないだけである。数学ではなく、自然を観察する経験科学とはそういうものであるとする。
プラトンは家族という閉鎖性を否定し、国家へ。ヘーゲルはそれを部族と批判し新しい国家観へ。ポパーはどちらも部族とする。家族の外を構想した思想家たちは、その外にも家族しか見いだせなかった。
「核家族」は2世帯住宅であり、親と子によって構成。戦後の日本である。「直系家族」は三世代が同居するときもある。それは子供一人が世帯で残り続ける跡取りとして、家を継ぐシステムだからである。「共同体家族」とは、女子は結婚したら旦那のところに行き、旦那の兄弟どもと一緒に過ごすため、同じ屋根の下にものすごい人がいる。
エマニュエル・トッドは、核家族が古く普遍的な家族であるとする。共同体家族は一番新しく、ユーラシア大陸の中央部から急速に拡大した。日本では地理的に辺境のため、革新が至らなかったから長らく直系家族であった。
儒教も直系家族的イデオロギー、そこから孔子が生まれるとする。共産主義国家が成立した、あるいは政治的に影響を持った社会は、共同体家族の分布と一致。特定の後継ぎもなく、兄弟は父のもとでの平等である、つまり権威のもとでの平等である。フランス革命の理念は、パリ盆地で支配的な平等主義核家族で流行る。それは縦の束縛はなく、兄弟の財産平等の家族である。
ドイツと日本は直系家族の伝統である。ともに近代の一時期の極端な民族中心主義へ。さらに長男以外を追い出す家族形態は、不平等的な権威主義へ。イングランドは絶対核家族であった。縦も横も束縛がなく、自由でドライ、自由主義で、個人主義である。これが産業革命へ。トッドは、私たちは家族によって思考が方向づけられている、とした。
家族の外にも家族があり、家族から抜け出せない。家族のイデオロギーから抜け出せない。これは人類学的でもあり、精神分析的でもある(精神分析は、家族というものを最重要視する)。
「訂正可能性の共同体」
家族とは、親密で閉鎖的で私的。ではなく、両義的であるのでは。ウィトゲンシュタインの「家族的類似性」という概念は、ドッヂボール・オセロ・UNO・すもうごっこ・FPS・お手玉・一人で壁に向かってボール蹴り、といったものが「ゲーム」と言表されるが、ゲーム概念は共通の性質があるわけではなく、それは「類似」であるとした。すなわち家族のように類似している。弟・姉・母・父・祖父・親戚・いとこ・・・共通の性質は無いが、家族的類似である。
人間のコミュニケーションとは、不確実であり、愛からハラスメントへ、教育から命令へと言語ゲームが変わってしまう。愛の言語ゲームかと思いきや、ハラスメントの言語ゲームだと、今指摘されて過去が遡及的に決まる。言語ゲームは互いに似ているためである。
補足:少々長いが、言語ゲームという概念は本書で重要な位置を占めるため、若干の説明が必要そうだ。それを試みる。
言語ゲームとは人間のパターン認識という一般的な特性を根拠としている。ウィトゲンシュタインがそれを説明する時に使った例えの一つが、建築者Aと助手Bのやりとりの例えである 。そこでは、建築者Aが石材を用いて建築し、助手Bは石材を建築者Aが必要とする順序で渡す。石材には「ブロック」「円柱」「板」「角柱」の4種類があり、建築者Aはその 4 つのいずれかの言語を言うと、助手はその指定された石材を建築者Aのもとに持っていかなくてはならない。助手Bは言語など何も知らないという前提に立つならば、建築者A は「板!」と叫んでも助手Bは何をしていいのか全く分からない。
そこで違う助手Cを呼ん で建築者Aとの作業を行ってもらい、助手Bにはそれをずっと見させてみる。3時間後再び助手Bを作業をさせてみると、助手Bは先ほど見ていたおかげでその建築者Aの言語がどのように使われ、それを聞いたら助手はどのような動きをしなくてはいけないかのパターンが把握できたため、助手Bは難なく作業をこなすことが可能となっていくのである。
そこで語彙を増やし、「あれ」と「これ」という2つの言語を追加してみる。当然最初は聞い たことない音声に戸惑う助手Bであったが、何回か繰り返し失敗していくうちにパターンが 分かり、遠くのものを指すときは「あれ」で、近くの物を指すときには「これ」なのだなと感覚 的にパターン認識ができていき、見事語彙を増やし作業を行うことができたのである。
さらに机という言葉を理解するのにも、このパターン認識は活用される。直示的定義(指をさしてこれが机ですという定義)や言語的定義(辞書を引け、言葉で説明を読め)ではどちらも机をうまく指し示せい。なぜなら、直示的定義では、机の何を指しているのかわからない。形状?色?材質?誰が使ったという歴史?質感?と。言語的定義では、まずその説明を行っている言語が分からず、その言語を調べようとしても、その説明も分からないので、無限循環する。
そこで多数の形状や色、年代やメーカーなど多様な机を指し示し、机のパターン認識を行ってもらうこと で理解が生じ、その人の中で机の像がおぼろげながら浮かび上がってくることで、この先の未来の机も分かった風になることができる。ここでいう机(つまり我々が認識する)は、4 つ足の机のほかに、中華料理店で良く見る回転式の机やふにゃふにゃの机、ボロボロになって使えない机など、様々な机を含んだ概念として家族的類似性を持っているだろう。
ここで示されているのは、言語とはパターン認識において学習され理解され、さらに行為にも結びつくことができるという点であり、そのパターンとはいくつかのサンプルを通じておぼろげに理解する事ができるのである。ここでは、「板!」と言うことは板を持っていくことと繫がり、「これ」と言うことは建築者の近くにあるものを持っていくという行為に繋がるのであ る。そして、ここでは登場人物が建築者と助手が2人の計3人と、概念語彙が6つの言語 ゲームであったが、これを拡大して社会を記述するならば、何億人かが構成員で概念語 彙が多数存在する複雑な言語ゲームを歩んでいることになり、その模型図として分かりや すくしたものがこのウィトゲンシュタインの建築者と助手の例えであろう。
詳しくは、ウィトゲンシュタイン「哲学探究」を参照。だがこれは非常にわかりにくいため、橋爪大三郎「初めての言語ゲーム」や野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い」が分かりやすい。
(補足終わり)
言語ゲームのルールとは、ウィトゲンシュタインが言うように、雑であり、遡及的に再構成がされたり、ルール自体がずれてしまう。閉鎖性=単一の言語ゲームの規則(ルール)ではなく、閉鎖性かと思いきや、規則もゲームも変わり、いつのまにか開放性へ。閉鎖性を要するものは、そもそも閉じれない。
ソール・クリプキという哲学者。プラスとクワス。クリプキは「27+92=119であるのは足し算という規則に従っているからであるが、その規則は本当に正しいのか?あなたは27+92という計算を人生でしたことがないのであれば、何故それが分かっているのだ。それはあなたが数学という言語ゲームの規則が分かっているからなのであるが、その規則とは、実は27+92では適応されないのだ。あなたはプラスをしているつもりでも、クワスを実はやっていたのだよ」と言う。これは、なぜ我々は言語ゲームを画一的な規則に従っていると思うのか、ということを隠喩的に指示してくれる。
我々は言語ゲームの規則に暗黙に従っている。規則を自身で分かっていない。従って、何かの言葉で何かを意味するということはありえない。規則も意味も本当は実在せず、現在の行為を支えている規則や意味は、未来の行為に照らしていくらでも論理的に遡及的に書き換えることができる。言語ゲームは移り変わるからだ。
だが我々はそれを気にせず暮らす。それは他者、解釈者がおり、他者との規則の共有(という幻想)があるからだ。そしてそれは、他者が規則を共有していなければ家族ではない、とされる。共同体の規則の外にいる人は、概念の理解を自動処理することができず、あるいはその処理もずれるため、共同体の規則へ変えることの強制を受けるか、あるいは退場宣言を受ける。その規則は、お前はプラス!、お前はクワス!と具体的な判断を解釈者が行うのみ。
だが閉鎖性は、言語ゲームの規則の訂正可能性があることで、他者の違うゲームに遭遇した場合も、自分や相手が訂正され、仲間になる可能性もある。時代の移り変わりやモードによって、ゲームも変わる。そして規則の遡及的訂正を受ける。
クリプキは、だが規則→共同体ではなく、共同体→選別→規則だとした。だが、それは静的すぎる。実際は、規則も共同体もゲームも変わり続けていく、訂正可能性を踏まえている。ゲームの成否判断、訂正の作業、それが諸所を動的構造へ導く。
思えば子供遊びは動的である、メンバーも年齢も、ゲームも移りゆく、なのに同じゲームを遊んでるように見える。閉鎖的でもあり、訂正に満ちて開放的でもあり、動的である。
アイデンティティ?固定した参加者?組織や団体?国民国家?いや、家族的類似性のもとでゲームを営み、訂正可能性を満たすものとして理解すべきだ。ゲームも参加者も、広大な思想も私的な思想も、訂正可能性を踏まえている。
再びソールクリプキ。一般名は定義できる。三角形は、同一直線上に無い三点と、それらを結ぶ線分に囲まれた図形。一度定義したものを否定する文は論理的に矛盾している。「三角形は四角形であった」は矛盾している。
だが固有名は定義しても訂正可能性を踏まえている。つまり定義を否定する文は意味が通る。「ソクラテスは女性だった」は、意味が通るし、もしそうなのであれば歴史的発見である。
固有名とはつまり、遡及的訂正を踏まえた言語ゲーム。だがそれは固有名を無くすわけではなく、その定義を変えることを選択する。つまり、訂正可能性を踏まえているるが、何か同じものを守っている(と思っている)という言語ゲームを見いだせる。つまり家族とは、固有名のように 再定義を繰り返す解釈共同体である。
※だが一般名も、実際にはそんな単純ではないし、おそらくこの説明ではクリプキの言いたいことが伝わりにくいため、詳しくはクリプキの本を読んでほしい。
フレーゲは、明けの明星と宵の明星は、それぞれどちらの指示対象も金星だが、使われる文脈は違うので意味は違うとする。
自然科学的世界に固有名なぞ存在しない。物質や三角形に固有名なぞ無い。だが、我々は、自然科学的世界の上に立つ人倫の領域。そこでは固有名が存在してしまう。「あなたはあなたであり、それ以上でも以下でもない」と。これは奇妙であると同時に、だからこそ、「あなたは実は○○だった」と、訂正可能性を踏まえる。
クリプキは、固有名は具体的なコミュニケーションのなかで、どのように話されたか、の連鎖が根拠であるとし、だから定義ができないとした。「ソクラテスは○○だよ」という具体的なコミュニケーションの連鎖によってソクラテスという固有名の付帯属性が付与されるからである。
「家族と観光客」
家族とは、同居と血縁が特徴であるとされる。だが同居もしなければ血縁でもなければ、人間以外でも、人類史的には生命体以外でも成立する可能性のある奇妙な概念である。
同じゲームで同じ何かを守ろうとしている、という言語ゲーム的特徴。そのゲームに従わなければならない強制性と、そのゲームである偶然性と、変わりながらも守り続ける可変性すなわち拡張性。家族とは家族というゲームに従わなければならず、その家族に生まれてきたことも偶然で、家族というのは血縁でもない犬でも、同居していない人でも、「家族」となってしまう可能性のある拡張性を有する奇妙な概念である。
現代は大きな物語(革命とか共産主義とか資本主義による人類や経済の成長とか)はなく、各々のトピックに各々が正義を主張している。その反対は、陰謀論で心の平穏を保つか、それともすべてに無関心の態度を示すかという二択が目立つ。
理解も認識も訂正可能性。あなたは被害者ではなく加害者だとする遡及的訂正の可能性。敵でもなく友でもない中途半端さ、すなわち動的で訂正可能性を踏まえた、地平に着地しない謎の存在様式である、観光客的な立場。開放的でも閉鎖的でもなく、独我論的でもない。前回の観光客の哲学で主張した、ネットワーク理論と誤配。そして訂正可能性によって共同体も理念も持続する。
「持続する公共性へ」
SEALDsの解散や、民進党の実質的解体、統一教会などの影響もあり、ここ10年くらいリベラルの退潮が著しい。
リベラルとは、右と左という概念で収まらない。保守の反対は革新であり、リベラルは自由と平等を志す。
日本では保守とリベラルの対立だと思われているのは何故か。アメリカでは、共和党が保守、民主党がリベラルとされるが、共産主義や社会主義といったいわゆる革命的な左は伝統的に無い。だから古典的リベラルを守るのが保守、現代リベラルがリベラルである。リベラルという前提があるのだとする。
ヨーロッパの冷戦期は、共産主義とリベラルの対立であり、左と右である。冷戦が終わり、左の存在がなくなると、日本はアメリカのようなリベラルの前提や固有の歴史の無いまま、保守とリベラルというアメリカ式二項対立図式が一般化される。
日本ではそのような経緯で、右の保守と左の革新は、保守とリベラルと同義で使われるように。これは便宜的なレッテル貼りである。つまり単純に言えば、閉鎖性と開放性である。だが実際には、保守が社会変革をすすめ、リベラルが護憲を主張し、保守することもある。ではその差異は?それは連帯の感覚という事実性である。
リベラルは皆を助け、保守は我々を助ける。開放性を主張するリベラル村という閉鎖性。彼らは補助金やアカデミズムの特権や既得権益、そして同じような人としか会わず、同じことしか喋らないらしい。
リチャードローティの思考を紹介しよう。現代では公私はもう分断しており、さらに分断すべきとの議論。宗教は私領域で信じ、公において強要はできない。だが宗教とは普遍性を重んじるのではなかったか。そこにアイロニー。自分の意見も偶然、自分の所属も偶然、自分の価値観も偶然、自分の存在も偶然、普遍性の存在も偶然。むろん、リベラリズムなんて理念も偶然。でも我々は前に進もう、これがリベラルアイロニスト。ニヒリスティックなロマン主義。不可能性を踏まえた可能性。
彼のプラグマティズムという立場は、真理へのへばり付きを否定し、実用性や内発性を重んじる。普遍性は私的領域において楽しめ。
リベラル的普遍性の範囲問題。リベラルに従わない人々は排除せよ!との言説。特定の「みんな」のためではなく、「みんな」のため!という場合の、「みんな」は誰でどこまでの範囲か。結局「みんな」は同じ生活形式や価値観を共有する人ではないか。さらにそような普遍性を押し付けることは、我々の生活形式をキャンセルされた、否定されたと感じる人々も出てくるのではないか。
ローティは、共感能力を重視する。崇高な理念の共有ではなく、「あなたは苦しいのですか?」と語る主体。つまり高みの共有ではなく、低みの共有へ。ルソーの憐み(ピティエ)に類似。
共感能力も自民族的ではないか!との批判もあった。だがローティは、細部への想像力や注目は、抽象的理念や概念言語を前提としたカテゴリーが、些細なものに見えてくる、地平の共有に注目。つまり、○○人や○○に所属しているカテゴリー的には違う人々でも、同じ子供をもって家庭をもって、食事して働いて、家族的類似性を備える。だから家族や人間関係も、閉鎖的組織でも仲間集団も、拡張性を備えるのだと。
そしてその仲間の範囲、共同体の範囲も偶然性である。これらは家族の3つの特徴(強制性、偶然性、拡張性)とも共起し、訂正可能性を踏まえている。
開放性と閉鎖性の対立。この開放性=公共性との観点は、冷戦後の共産主義に対する期待がなくなると、リベラルの注目を集めるようになる。それまでは公という言葉はどちらかと言うと、悪いイメージだったとする。
ハンナアーレントは、「労働」と「活動」を分ける。「労働」とは、金目的の利己的なバイト、に代表されるようなもの。肉体の生物学的な過程である。「活動」とは、社会貢献が目的の、ボランティアや政治運動。古代ギリシアのポリス・アゴラ的なもの。[活動/労働]=[履歴的(名がある)/匿名的(誰でもいい)]=[公/私]=[他者との関係性/孤独]。
一方で「制作」とは、クリエイターや本を書く人々といった行為である。アーレントは労働<制作<活動とした。活動は固有名としての人間が出現するのと同時に、公共的な空間が出来上がるからだ。人格の固有名ではない、一般名は避けよ。その領域において、公共性にコミットせよ、それが善いことであるとした。公の領域においては、その固有名の存在から発せられた言葉は、皆に聞かれ、公示される。
その様な領域から「共通の世界」が出来上がるが、そこに持続性を持たせるならば、後世に伝えるための「制作」が欠かせない。活動の持続性は制作を前提とする。アーレントは公共性を、開放性と持続性で定義。
だがこの制作は、活動家を訂正してしまう契機をはらむ。だがこれが持続性を解放する。制作家によって訂正がはらみ、他者に読まれることで訂正がはらみ、後世に伝わることで訂正がはらむ。そして活動は制作に依存し、ポリスはオイコスに依存し、政治は出生に依存する。
ちなみにアーレントは、フランス革命は「熱狂」しか残さなかったが、アメリカ独立革命は合衆国憲法と共和制という公的見解を改正するための継続的な制度を残したとする。
昨今は開放性しか議論されていない。持続性には無沈着だ。持続性、そして訂正可能性、それはリセットではなく、過去の不条理をある程度許容しつつ議論し続ける。私たちは誤るし、それに責任を負う。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは、「マルチチュード」という概念を提唱した。ネグリとハートのマルチチュード概念は、体制への反発である。だが、反発は組織的に行われず、ネットワーク上に繋がり、有象無象の人間たちがグローバルな市民権を要求する新しいプロレタリアート運動である、とする。それは資本主義や会社、NGOなどを利用し、既存システムのオルタナティブではなく、既存システムに乗っかったうえで遂行される。
そして、[公/私][政治/経済]の左辺に寄るアーレント的な考えは意味がないとし、私・経済がそのまま公・政治に向かうとする。ジェンダー問題は、「私の領域は私で解決せよ」から「私の領域はそのまま公に繋がる」こととなる。だが、具体的にどのように連帯するのかは提起されていない。
シャンタル・ムフは左派ポピュリズムになれとも言う。右派ポピュリズムには左派ポピュリズムになれと。そして左派的言説は、ブランドや承認の道具へ向かう。これでは持続性は無い。
人文学は自然科学のような仮説と実験も、社会科学のような統計もフィールドワークもしない、過去のテキストの再解釈を行う。人文学は今は下に落ちすぎている。有名な人もおらず、いたとしても罵詈雑言を呈し、口がでかいやつしかいない。
筆者はそこで人文学を復活させるきっかけを作ろうとする。過去のテキストの訂正により、思考を深めていくのが人文学であると。権威主義かもしれない、だがそれは目的ではない。このテクストも、訂正されるかもしれない。そしてそれは、実戦によって訂正を行為し続けなければならない。
「人工知能民主主義の誕生」
コロナパンデミックは、人々に混乱を招いた。いや、専門家でさえパニックになり、初期においては、何が感染防止に効果的なのか分からず、感染拡大の予想もつかなかった。だから、専門家の言うことを鵜吞みにし、根拠が薄いまま、国境封鎖や都市封鎖や外出禁止といった権力が、法的根拠や経済的損失を議論せず行なわれた。まあ緊急だからしょうがない部分もある。だがこのドタバタ感は注目に値する。
21世紀は、文系から大きな物語(広大なマルクス主義的革命理念や資本主義的成長による幸せな我々の実現構想など)は消失したが、理系から大きな物語が出現した。例えばシンギュラリティ。この概念は、もとはレイ・カーツワイルという思想家・実業家・未来学者。だが彼は夢想主義的である。その論理は、技術の指数関数的成長はこれからも止まらない、なのでシンギュラリティは起こるという主張。そして身体を脱ぎ捨てた超知性が太陽系を超え高速を超えて広がり、やがては宇宙全体を覚醒させる、とする。夢想的な物語だ。
デジタルネイチャーで有名な落合陽一は、一部の先進的資本家=エンジニアがAIを用いて人々を技術で幸せにする世界を構想している。人々の大多数はベーシックインカムにより生活を保障する。古い人間感、つまり自由や平等といった伝統的観念はそこで途絶えるとする。指数関数的な成長は我々を幸せにする、という大きな物語。これらは非人間中心主義のように見えるが、技術は人間が生み出すので、人間に対する絶望と期待が両立している。
ユヴァルノアハラリは、コロナ前に、我々は戦争も飢餓も感染症も克服したとした。だがコロナという蓋を開けてみれば、感染者の差別、陰謀論、反ワクチン言説。確かに世界全体の栄養素も、20世紀の間で劇的に改善され、平均寿命も延びている。でもそれは過去から見ての観点であり、今でも飢餓は世界で8億人。戦争においても、ロシアのウクライナ進行や、中国の台湾侵攻するのではないかとの話題も尽きない。感染症に関してはコロナのドタバタだ。
アップルとグーグルの携帯電話の近距離無線通信機能を用いた濃厚接触の検出追跡機能。だがこれはほとんど役には立たなかった。誤認も多く、さらに人々はアプリをインストールしなかった。挙句の果てに今では削除推奨である。
コロナの感染者の増減は科学的なシミュレーションを裏切り、技術による繁華街の人流抑制の効果は、利用しているデータは携帯電話の粗い位置情報であったし、しかも現実にはマスク・手洗い・外出禁止が感染症抑制の効果であった。
かつて、SNSやインターネットにより民主主義は向上するとの言説が至る所で存在したが、現実はただのフィルターバブル(見たいものしか見えないようにするシステム)とエコーチェンバー(閉鎖的なネット空間で自分に似て、自分にとって好意的な言葉しか現れない)や、脳みそですらエコーチェンバー(解釈したいものしか解釈しない)化の嵐であり、インターネットもSNSも娯楽以上のものではない。
技術が進歩しても人は馬鹿であった。そこで、馬鹿でも回る機械的な民主主義構想が力を持ってくる。人工知能民主主義である。これらは機械を中心とする世界観であり、脱人間中心主義だが、その理想を思索するのも、その機会を作るのも人間である。よって人間への絶望と、人間への過剰な期待が両立する。
70年代のアメリカのガレージコンピューター系のハッカーは、IT産業の萌芽となるが、西海岸のニューエイジ思想やサブカルチャー文化と密接に関係し、反体制のイデオロギーとも結びついていた。ネット規制強化に対するサイバースペース独立宣言(新たなる虚構空間の保持)や、アメリカ人の個人主義的で自由主義的な精神と愛国心の無矛盾性(日本人からすれば奇妙な思想)もあった。このようなカリフォルニアンイデオロギーは、技術で社会は良くなるとする楽観主義や、起業家の競争精神を促進する新自由主義や、反体制も愛国も融合した奇妙なイデオロギーである。
かつてのITサービスはリバタリアン的な思想を含んだサービス開発であったし、そのようなイデオロギーと結びついていたが、今は検閲に結びついた。
ハラリも落合も「馬鹿な人間をどう統治するか」という問いに対して、「それは機械とデータである」と答える。リンカーン的に言えば、「バイザピープルでも、オブザピープルでもないが、フォアザピープルである世界である」。これらはかつての、ネット民主主義の絶望から生まれた。
だがしかし、シンギュラリティ自体はやってくる。機械が人間と同じ、いやそれ以上の知的作業を営む時代は必ずやってくる、そいつらが地球も人間も滅ぼすかは置いておいて。仕事も、プログラムも、翻訳も、エンジニアもいらなくなる時代は来るのではないか。
だが、彼らの言うユートピアはやってこないとする。それは人間が人間である限り。現実には、機械に人間らしさを見いだして一喜一憂し、だけどこれは人間ではない、と言うだけでは?
人間の生きることの厄介さは、言語ゲームの相手が人間だからでもない。規則を不完全にしか運用できず、訂正を加えてしまうプレイヤーだからこそ生じる。
「一般意志という謎」
ルソーの社会契約論。人間は本来、孤独で、弱く、外敵に対し戦えない、だから暴力も自由も預けて社会契約を成立させると。
ルソーは事実上君主制を支持。だが君主は人民の意志を尊重せよとする。でも実際には、人民の意志を尊重するなら統治者も人民であるべきだ、と訂正的に読まれる。それが民主制の基盤となった。
特殊意志とは私個人の私的な意志である。全体意志とは私個人の私的な意志の単純な集合である。一般意志はこれとは違う。ちなみにルソーは代議制も否定する。なぜなら一般意志は社会契約から必然的に生まれるから。カールシュミットは、議会制は全体意志、独裁制は一般意志とし、後者を推奨する。
ルソーは、統治者の頭脳は大衆の理解を超えるため、大衆の意見に聞いても良いが惑わさられず、神のように人々の一般意志を把握し実現しなくてはならないとする。
思えば20世紀の民主主義概念は曖昧である。西側は社会が人民の意志に導かれるには、市民的自由と言論の自由と複数政党制が必要だとする。東側ははブルジョワ階級や格差をぶっ壊すことが重要だとする、だから共産党でも問題ない。
ルソーは哲学者でもあり、音楽家でもあり、文学家でもある。ルソーの人間は、啓蒙的人間観に彩られているわけではない。人間とは情念的で、他人を傷つけ、自分すら壊してしまう不安定な存在であるとしている。それは文学的でロマン主義的な世界観である。
ルソー個人に注目すれば、彼は嫉妬にまみれ、被害妄想的な人間である。だが、純粋の愛や平穏な田舎暮らし、そして教育の在り方にも偉そうに主張している。一方で彼の子供は孤児院に皆行き、夫婦関係にも問題があり、放浪もトラブルも起こし、金銭面のトラブルも起こし、挙句の果てに社交も面倒になって、パリの郊外に引きこもる。現代風に言えば、コミュ障でメンヘラで、壊れていて、SNSで大暴れするタイプである。
ホッブズの社会契約説。万人の万人に対する闘争であり、人間は放っておけば争い、奪い合い、自分勝手に振る舞う存在である。だから自由を一部権力に委任し、社会契約を結ぶ。社会契約の基においては、暴力的な力は機能せず、権力の力が優先される(雇用契約や法律が機能するのは、暴力独占隊という圧倒的力が背後に備え、逸脱したら権力的力を行使できるとの暗黙の予測があるから、とマックスウェーバー的に説明もできる)。「だがそれは統治権力が信頼できる限り」という条件付きである。
トマス・ホッブズにとって社会契約は全体意志であり、私個人の利害に沿って利己的に、国家が成立する。ルソーのように一般意志という概念は必要ない。ジョン・ロックも人間が本来持っている所有権を確立するために社会契約は必要であるとする。
だがルソーは違う。人間は自然状態の方が幸せであるとする。孤独で、何にも縛られず、誰にも依存していない状態が幸せであると。だけど社会契約をする。だから一般意志という概念が重要。なぜ自然状態が良いとか言いながら、社会契約の意志に従うべしという議論をするのか?
これは成長物語なのか? 自然状態→社会契約→共同体→一般意志という物語。いや、ルソーは社会を「作ってしまった」と答える、つまり自然状態の方が我々は幸せなのにもかかわらず、社会を「作ってしまった」。彼の「人間不平等起源論」では、自然状態の人間から、俺のものだ!と私的所有を持ち出す輩の登場に対して、その不平等に身を委ねてしまうところから不平等が始まるとした。人間不平等起源論では、社会契約は必然ではないのに、「社会契約論」では必然となってしまう。筆者はそのルソーの矛盾を、人は社会を作らないほうが幸せなのに、社会を作ってしまった、だから社会契約はあったと遡及的に考えざるを得ない、とルソーの主張を見て取るべきと答える。
言語ゲームは遡及的に何かを発見できる。お前はクワスをしていたのだ!と。自然状態では元々実在しない所有概念。でも遡及的に実在してしまう。もし不平等な「社会」が出来上がってしまったとすれば、一般意志は遡及的に存在すると見て取るしかない。
自然はただある。人為は誰かが設定する。だから憎しみの対象になる。自然は常に正しい。だから一般意志はこれに近づくべき。自然状態では人への依存という悪は無かった。
もし今の不平等な社会が存在していると見れば、社会契約があったと想定せざるを得ない。社会契約は、人々の権利や財産の贈与から、国家からの守護という対価がもらえることで、人間は自然状態でいられる。ルソーはつまり、社会契約後も自然状態が良いことだとしている。この自然状態から生じるものが一般意志であり、全体意志とは違う。
一般意志は常に正しい。それが存在しているとすれば。
ルソーは暗にこう言っているのではなかろうか。「もし君たちがこの不平等で非本質的な社会の存在を承認しているのであれば、かつては社会契約があったと認めざるを得ない。さすれば君たちは、論理的な必然として、自分では自由でありながらも、一般意志の命令には絶対に服従しなければならない。それが社会というものだ、それがどんなに残酷なことか分かっているのか?」と。
特殊意志は個別で私的な意志だが、一般意志は予測できるし、物理法則のように思える、それはつまり自然状態でり、常に正しいとしている。これは統計に近い。つまり個別意志は私的な意志だが、物理法則のように動く人々全体の意志を記した統計的意思は未来を予測できるし、この統計的意思を用いて政府は判断せよとの主張は、いささか合理的に思える。自然を重んぜよとの主張は、統計的意思を重んぜよとの主張と相性が良い。ルソー流にいえば、「自然は常に正しい」のである。
意志は意識される。だが一般意志は意識されないから、立法者が一般意志を汲み取るべし。我々は意識の次元で物事を考える。だが精神科医や精神分析医は、我々の無意識を考える。特殊意志ではなく、一般意思を汲み取るべき。権力者は民衆の「本当は何を望み、本当は何を意志しているのか、といった一般意思を汲み取って意思決定するべし」。
すなわち一般意志は社会の集合的無意識と統計、機械によって実現できる?。人工知能民主主義は、民主主義の失望とルソーの主張をまっすぐ受け入れることの延長戦に位置づけられる。だが、人工知能民主主義は、人々の感情的沸騰に耐えられるか?公共性なぞない人々に耐えられるか?。
言語ゲームの解釈の再定義や訂正を図る人間の特性は、どれだけ技術的な進化を経ても変わらないのではないか。我々は根源的にクレーマーを生み出し、コミュ二ケーションの不確実性に絶えず直面するように。
人間はドストエフスキー的な厄介な存在。ドストエフスキーは「ユートピアは実現すればいいさ、だが私はそこに巻き込まれたくない」と言い、賢くなく、幸せにならない権利を主張する。だから掛け算に怒っている。掛け算、それは合理や理性の象徴である。
一般意志は遡及的に訂正され、そこに向かえばいい社会が誕生するとされてしまう。訂正可能性の言語ゲームの中で遡及的に発見され、他に向かうことが正しいものだとされてしまう。真っ直ぐなルソー主義。だがルソーは真っ直ぐではない、捻くれている。
「ビッグデータと私の問題」
90年代と比べ、人々が個人情報が統治権力や企業に抜き取られるのはあまり抵抗がないと思われる。生活も豊かになるし、個人情報保護法も整備されたし、なによりも慣れた、そんなことは当たり前であると。
キャシーオニールの「数学破壊兵器」という著書。FICOという「金融品用スコアリング」は、多くの金融機関が使用しているスコアリングシステムである。それは、その人の返済が滞ればスコアが下がり、収入残高が多くなればスコアが下がる。金融機関は融資の判断に使う。これは特定の人間の返済能力判断である。
ビッグデータを活かしたスコア利用は、代理データである。どこに住み、誰と住み、どんな物を買い、誰と交流しているか、そしてそのような情報をもとに資産状況を推測する。だがそれは固有名としての「あなた」ではなく、こういうことをしている人間は「あなた」と似ているので「あなた」となる。
単純化すれば、服装が高そうならあなたは金持ち!みたいなものである。こういう人はこういう人である、という偏見や差別をし続ける人を連想させる。ビッグデータにおいては、外れ値は飲み込まれる。ゲームは訂正されるが、これは訂正されず、外れ値は無かったことになる。じつは、、、だった、という訂正可能性は無い。そこで現れる「私」は、固有名(訂正可能性)ではなく、一般名の複合であり、アーレント的に言えば「活動」をする公共空間で現れる固有名の存在ではない。
異なる属性でも、人は固有なので、平均と比べてハズレた意見を持てる。そして例外があり、誤配があるから、人は変われ、社会は一体性を持てる。
国によっては、ビッグデータで予防拘禁も行われている。ビッグデータで情報を収集し、犯罪者認定を行う。ルソー的に言えば、「一般意志が死を命じたなら、あなたは死ぬべきだ」。
フーコーの「主体化」概念は、人々の内面に権力の規律の視線を移植し、好き勝手生きているようで自発的に秩序を形成するような主体。生きさせる権力としての「生権力」である。それは権力によって「あなた」を形成する。
「普通ではない人」とは、平均人からの逸脱として理解される。ビッグデータは逆で、類似によって、アブノーマルとしてではなく、外れ値も貪欲に飲み込み、あなたを「普通」にする。しかも「あなた」は形成されない。
ノーマルとアブノーマルに言及する生権力。性的マイノリティ研究はそのノーマルという観念に釘を刺す。アルゴリズム権力はアブノーマルは無視してノーマルとして扱う。
じつは。。。だったといった訂正可能性も起きない。主体化も起きない。固有名としても現れない。
あなたはこうすれば幸せになる、との指し示しは、固有名としての「あなた」に対してではない。
グーグルという企業は、人間(利用者)の経験を(購買履歴や何を閲覧したかの履歴など)、行動データに変換するための無料の原材料として、それを一方的に要求し、その行動余剰(集められた個人情報の一部しかグーグルは使わず、残りは人工知能に入力され、利用者がどのような生活を送っているのか、今何を買いたいのかを予測するために利用し、それを広告主に売ることで儲ける。この人工知能に充てられる部分)から広告主が予測生産(ビッグデータをもとに、人は何を求めるのか、を予測に基づいて製品を生産する)を生産したうえで、最終的にプラットフォームが莫大な利益を得る。
羊を人間が加工して売る→人間を機械が加工して売る。プラットフォームという牧場を開き、無料を餌に人間という羊を集め、サービスの柵の中に囲い込み、個人情報という羊毛を集め、それを加工して人工知能という繊維工場に送り、布を作って販売。羊に固有名はない。
鈴木健の構成社会契約論。ホッブズやルソーやロックらは、人間を最初から自我を持ったものとして存在しているとの前提だとする。物質→細胞→多細胞→人間という軸で考え、人間の動的なオートポイエーシス(簡単に言えば物質レベルでの外界と身体の循環、この視点では自我は閉鎖性ではなく開放性を備える)に注目すれば、人間間や企業や地域や国家は、人間を超えた自然の秩序そのものとなる。意志や欲望がネットワーク上に繋がるなめらかなものである。ルソーの自然状態的な思想である。
人間の固有性を無視しては、持続性はあるのか?それは我々を幸せにするのか?その問いに答えるために、訂正可能性の哲学が必要。
「自然と訂正可能性」
一般意志は特殊意志を超える「自然」であるが、それは特殊意志によって生まれる社会でもあると。
一般意志もゲームとして遡及的に訂正され、新たなゲームが生まれる。超越的正しさは、内部によって訂正可能性を被る。それは宗教という普遍的なものを、人間という普遍でもない特殊な輩が「選ぶ」という謎の行為があるように。
ルソーの「新エロイーズ」という小説は、人為でありながら人為でないものを描こうとした小説である。ルソーは芸術とは社会であり、自然ではないとしたのに、自ら人為の小説を書こうとする。彼は人為を経由した人為的自然を書こうとする。わざとらしく、おんなじ事を言い、くどくどしている自然な人間を書こうとする。「ピグマリオン」においても、人為的に創作した彫刻に命が宿り、抱きしめて一体化する様が書かれる。人為の自然化である。
ルソーの演劇批判。まず演劇は嘘である。虚構に涙を流すことは、健全な政治を否定する。そして自律的な議論の空間を破壊する。政治には少人数で集まるラフな議論の場、つまり「小さな社会」が重要だと。演劇はそれを破壊する。
演劇は、みんな芝居の楽しみではなく、話題作りとその後のおしゃべりを求める、とする。それは特殊意志の強化が行われるから駄目だ!と主張。一般意志は社会契約時に出現するため、いわゆる社交的な議論によって出現するわけではない。
ルソーは、演劇の虚構ではなく、真実とも嘘とも言えない生々しい自身の小説を尊ぶ。それは「小さな社会」を壊す破壊力もない。つまり一般意志を汚さない。都会人は承認や虚構、そしてルソーが嫌いな社交を求め、文明的であるが、田舎人は真実であり本当であり、自然である。これがルソーの世界観だ。
ルソーは演劇から自然を守る、しかも人為によって守る。嘘によって真実を守る。自然を守るために人為が必要という逆説は、社会契約論と同型。自然は絶対的なものだが、遡及的に再構成される。自然は絶対的だが、人為によって再構築される、そして絶対的な物は、相対的な人間によって訂正を受ける。
自然絶対主義と、自然を人為的に嘘を経由しても守る訂正可能性。絶対的なものを訂正されてしまうことは、儚く寂しい。その変化こそが、共同体を持続させる。
「対話、結社、民主主義」
自然は自然のまま放置すると、自然以外に堕落。一般意志を一般意志のまま放置すると、それ以外へ堕落。守るためには「小さな社会」という人工的自然が必要。だが自然は相対者、すなわち人間の内部表現であり、訂正可能性を被る。自然を実現すればいいという構えは、正しい統治原理をすることが民主主義だという構想と似ており、思想史的には真っすぐなルソー主義と見れる。
一般意志は真実の言葉(哲学あるいは法の言葉)だが、小さな社会は真実か嘘かわからない言葉(小説あるいは恋愛の言葉)。小さな社会という緩衝帯があることで、一般意志は虚飾と社交にのみ込まれずに済む。
ミハイル・バフチンという哲学者。言語とは本質的に相手の言説から自由なものであるが、権力や決めつけに萎縮してしまう。ドストエフスキーの小説は、決めつけや死人扱いするような言説を全て打ち破る構造になっており、言葉の自由性を担保しているとする。そして誰が作者の代弁者なのかも分からず、各々が自律性を持って声を発している。
バフチンにとっての対話とは、完成はなく、暫定的決定であり、訂正可能性であり、終わることがない。「地下室の手記」は、手記という設定なので常に一人称。だが常に他人の目線を気にし、勝手に想定した非難や反論に答え続ける、個のモノローグ化が出来ない人、つまり個は個である限り声は一つなのだが、個に多数の声が飛び交う、そのような人を書く。
ドストエフスキーが「地下室の手記」を書いた当時は、産業革命がロシアでも急速に人々の生活を変え、そして啓蒙的な思想が支配していた。これに対して、「2×2=5であることも可愛らしいではないか」とドストエフスキーは言う。人間は理性に従わないことも望み、利益に反することも望み、賢人の言説にも反抗できる。そして2×2=5は、クリプキの言う言語ゲームのクワス算という主張として、そのままの意味でも読める。
ユルゲン・ハーバーマスの市民的公共性の議論は、コミュケーション的理性、つまり我々が理性的に公共的に議論をすることによって、一般意志の不完全性を補完するとしている。それは国家ではなく、それよりも小さな市民社会においての議論である。
それに対して訂正可能性の哲学は、最終的な真実にたどり着かないが、だから一般意志の真っすぐな思考や独我論的なゴリ押しを脱構築できる。一般意志の暴走は理性によって抑え込まれるわけではなく、文学によって正しさとは無関係に抑え込まれる。そして、文学の嘘が真実を人為的に構成する。
一般意志は暴走する。だから熟議と無意識のデータによって最適にしなくては。これが筆者の「一般意志2.0」という著書での主張だった。だが民主主義2.0は、私的で動物的な行動の集積は公的領域をそのまま形作り、公的な人間的な行動(熟議)はもはや密室や閉鎖領域でしか行われない。それらは結果的に公共的な役割を与えるかもしれないが、私的な領域がそのまま影響を与える。事前に公共性を保証するわけではない。
ネットの言説を想起されれば良い。動物的反応が有名人の炎上に影響を与え、スポンサーへの直のクレームがスポンサーに依存するテレビや組織に影響を与え、政府も企業もインフルエンサーもSNSの炎上という私的で動物的な沸騰を気にし、行動を行う。私的領域や動物性はそのまま公共性を形作っている。これをアーレントが見たらどう思うのかは興味をそそられる。
絶対的で普遍的な理念は、相対的で特殊的な訂正なしには維持できない。だから民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。これが筆者の主張である。
アレクシ・ド・トクヴィルという人がいる。アメリカは何故共和制を維持できたのか。彼によれば、それは権力の分散に成功したから。結社の自由、個人的自立の尊重が代表的。そして地理的条件により安全面への投資や軍がいらない(当時は)。アメリカに住むものは、何かの問題点、例えば頻繁に生じる渋滞などがあれば、諸個人がすぐに集まって相談したり行動に移す。関係者が集まる以前から存在する何らかの機関に頼るのは、その後である。それは社会や国家を信じないからこそであり、個人主義であるからである。
アメリカの民主主義を彼が肯定したのは、統治権力でもなくイデオロギーでもなく、人々が自律的にしかも公私の区別もあまりなく、政権の是非や教会建設、飲酒論争を繰り広げる場があるからこそである。
一般意志を盲目的に信じず、自律的に訂正をし続け、終わらない対話を続ける。一般意志は、つねに正義と民主主義に訂正され続ける。ポリティカルコレクトという言葉は、政治的正しさと言われる。だがコレクトには、訂正という意味もある。つまりコレクト、常に訂正をしていく。
正義も愛も真理も自我も美しさもない。全ては幻想である。近い将来自然科学によってそのメカニズムは解明できると思う。だが我々は幻想を求める動物だ。哲学がやるべきことは、幻想の解明ではなく、幻想の訂正可能性を指し示すことだろう。
雑談(見なくていい):哲学や思想や社会科学の学問も然りだが、当たり前のことを遠回しに語ることもしばしば見られる。当たり前の言葉を、衒学的に、そして哲学的に、そして文学的に・詩的に語ることも多い。ポストモダンの哲学なんかはそのような特徴を有しており、過剰に文学化された哲学である。
もちろん込み入った議論も当然するが、日常用語に変換すれば誰もが言いそうな当然の帰結になるようなことを、遠回しに表している場面も多い。「他者性の尊重」というかっこいい言葉は、「人は分かり合うべき」という誰もが言いそうなことに10万くらいのスーツを着せる行為であるとも見れる。
だがそれは同時にかっこよくもあるし、美しい文体であることも多い。これにはどのような意味があるか。当たり前のことを詩人が美しく花飾った言葉で語ること、当たり前のことを人生経験豊富なおばあちゃんが天を見つめながら語ること、当たり前のことを教祖が宇宙の真理が目の前にあるが如く語ること、あたりまえのことを歌手がステージで人々に注目されながら語ること、当たり前のことをプロジェクトXで黒い背景と壮大な音楽をシャリの上に載せて語ること、当たり前のことを過去の偉大な思想家の言葉を援用して語ること。おそらく、この当たり前の言葉に謎のカモフラージュをすることで生まれる謎の力によって、歴史も人間も動いてきた面もあるだろう。
我々は内容ではなくこの謎の力に突き動かされる動物であるのだろう。この謎の力への「酔い」がおそらく、超越的正しさでさえ訂正可能性の脆弱な地面にもたれ掛かっているという現実に直面しても、絶えず永遠に前進すること(終わりのない対話)を可能にするのでしょう。
この本を読んだ後、ルソーについて友人と語ったが、友人は「ルソーなんてただの時代遅れっしょ」と笑いながら嘲っていた。酔いの対象でさえ、この嘲りの対象にも訂正される。酔いの対象である芸術や文学や、先ほどのような語りは、時代や人が変われば、「芸術とか草」みたいに嘲りとしても訂正されてしまう。ヘーゲルは国家への「酔い」が重要であると説いているように思える。だが現代では酔いの対象は全体性を踏まえない。絶えず嘲りと酔いの社交ダンスが繰り広げられる。
歌舞伎町のホスト狂いの女の子は、男に酔うが、男は金を払っているから私と話してくれるとアイロニーとしてでもある。酔うと同時にアイロニーでもある両義性。多分このような構えが現代においての「酔い」への構えなのだろう。