「子連れ様」バッシングは妥当である
本日も闇のnoterこと白饅頭尊師が闇を射出していた。
白饅頭氏の記事では、「子連れ様界隈」の一例として「迷惑行為をしていない親子連れの様子を盗撮して『子連れ様』と呼び叩いている」ツイートを挙げているので、記事へのコメントやシェアコメントは「子連れ様界隈」へのバッシングが大半となっている。
確かに、別に誰にも迷惑をかけていないのに、盗撮写真を使って他人を非倫理的存在だと晒し上げる行為は、それこそが非倫理的行動である。しかし、親子連れを「子連れ様」と呼ぶ人々は、果たしてそのような非倫理的かつ的外れなバッシングを行う者ばかりなのだろうか?「子連れ様」バッシングは、妥当でないと言い切れるのだろうか?
この記事では、「『子連れ様』バッシングは、妥当性のある行為である」という立場で、「子連れ様」をめぐる議論について意見を書いていく。
「子連れ様」バッシングは的外れなものばかりなのか?
「子連れ様」バッシングは、白饅頭氏の記事にあるような的外れなものばかりなのだろうか?
答えは否である。
親子連れの迷惑行為、そして「子連れ様」という言葉を使う人々の、親子連れや子持ちに対する妥当性のある非難は、2、3分検索しただけでもこれだけヒットする。盗撮などの非倫理的な行為をしている訳でもない。
この「子連れ様」バッシングが、不当なものと断言できるだろうか?
「お互い様」という大嘘
「困ったときはお互い様」という言葉を使って、親子連れの迷惑を擁護する見方がある。
親子連れが基本的には周囲に迷惑をかけるものだ、ということは、その善悪を脇におけば論をまたないだろう。幼い子供はマナーを理解できないし、騒音をはじめとした周囲への迷惑を意に介さない。それを躾でどうにかすることは、確実ではない。
だが、かといって、それを「困ったときはお互い様」という言葉で擁護するのは、今の時代には無理があるだろう。
「皆婚時代」と呼ばれるほど、結婚や子作りが誰しもにとって現実的な未来であった時代なら、「自分も幼子を育てる立場になれば、同じような状況に陥るから」と「お互い様」精神を発揮して親子連れの迷惑を許容することができる者は多かった。
しかし、自由恋愛社会では、「皆婚」は成り立たないし、「お互い様」精神を発揮する前提が成り立たない。
非モテに代表される将来的にも非婚となることがほぼ確約された者にとって、子育ては「自分もこれから経験すること」ではない。ゆえに、「お互い様」精神を発揮しようがないのだ。
それどころか、現代において子供を作ることができる人間は、ヒエラルキー上位の強者であり、非モテはそういったヒエラルキー上位者から「いい年して恋愛経験がなかったり結婚していない人間は人間性に問題がある」とされ、いじめや搾取の対象となるヒエラルキー下位の被差別者なのだ。
そもそも、「困ったときはお互い様」という言葉は、迷惑を許容してもらう側が自己弁護のために使うべき言葉ではない。赦してもらう側が偉そうに自己弁護するなどおこがましいにも程があるではないか。そんなことをいけしゃあしゃあと吐けるのは、自分がヒエラルキー上位の「尊重されるべき存在」であるという驕りがあってこそだ。
「子連れ様」に自浄作用はあるのか?
結論からいえば、ない。
「子連れ様 (a.k.a. 親子連れ)」の迷惑行為を、同じ親子連れが注意する、といった事例は寡聞にして聞いたことがない。それどころか、先述の「困ったときはお互い様」や、「子供は可愛いからいいじゃないか」というかわいそうランキング丸出しの理由を持ち出して擁護しようとする意見ばかりを見る。つまり、「子連れ様」には自浄作用がないのだ。
なぜなら、「子連れ様」は自由恋愛社会の勝者であり、自分たちの迷惑行為については親子連れ同士なら「困ったときはお互い様」や「子供のかわいそうランキングの高さ」を持ち出し、子無しには「敗者風情が勝者様に意見をするな」と跳ねのけることで社会的には赦されてしまうからだ。
そんな恥知らずな態度を貫いてきたからこそ、実際に周囲に迷惑をかけているかどうかを問わず、親子連れであるというだけで「子連れ様」と白い目で見られるほどの状況になっているわけだが。
「そんなこと言っているから子無しなのだ」という鶏卵のすり替え
見境なく「子連れ様」を叩く子無しに対し、「そんな非倫理的なことをするような人間性だから子無しになるんだろう」と揶揄する者もいる。
これは、はっきりいえば鶏と卵をすり替えた詭弁であり、強者の傲慢である。
「恋人がいること」「結婚していること」「子供を連れていること」は、現代社会においては、自由恋愛の強者のシグナリングである。
自由恋愛社会では、「恋愛/結婚経験がない」という表面的事実を「人格的に問題がある人間の証」とし、そのような人間をいくらサンドバッグにし、疎外しても構わない、ということになっている。
そのように虐げられ、疎外されてきた人間が、「子連れ様」を「容姿や能力などの運に恵まれただけで自分たちを攻撃する醜悪な敵」とみなすことに、どんな無理があるのだろうか?
そのような「醜悪な敵」が、「恋人がいる」「結婚している」「子供がいる」という表面的な事実だけで「模範的な人格者・善人」として尊ばれ、さらに増長して自分たちを叩く現状において、「敵」の迷惑行為を糾弾し、「敵」の不当な地位の高さを破壊しようと試みることは、間違った行為なのだろうか?
順序が逆なのだ。「子連れ様」が弱者を好き放題殴ってきたから、これほどまでに「子連れ様」バッシングがエスカレートしてきたのである。「子連れ様界隈」は、強者や社会が行ってきた非モテや子無しに対する差別的行為の結果にすぎない。
※個人的には、現在の「子連れ様界隈」に女が多いとされていることについては、自由恋愛において「選ぶ性」である(=やろうと思えば不妊でない限りいくらでも子供を作れる)分際で何をほざいているのか、とは感じるが、それはまた別の議論だろう。
「子連れ様」は社会的責務として子育てをしているのか?
「子連れ様」の擁護として、「親は日本国を存続させるという社会的責務を果たすために子を産み育てているのだから、いちいちいちゃもんをつけるな」というものがある。
そんな「高尚」な目的を意識して子作りをした親は、全体の何割なのだろうか?ほとんどは「勢いで、性欲に任せてセックスしたら子供ができた」から産み育てているだけだろう。既婚カップルのうち4組に1組がデキ婚であるという統計データもある。
そもそも親という生き物が日本という国を少子化から救うために子供を産み育てているのが普通だとするならば、2を割っている出生率をカバーするために少なくとも3人以上は子供を作る世帯が大半になるはずだが、児童のいる世帯における平均児童数は2人を割っている。
この状況で、どうやったら「親は日本国を存続させるという社会的責務を果たすために子を産み育てている」といえるのか。単に「子供が欲しい(でも育てきれなさそうな数は欲しくない。少子化とか知らない)」という考えで子作りをしているに過ぎないのではないか?
「十分な教育投資をしたい」という理由で親が子供を産み控える傾向があるのは、既に散々指摘されていることである。
つまり、親個人の行動において、少子化改善などという項目は大して優先度が高くないのである。
では、なぜそのような出鱈目な「子持ち様」擁護が出てくるかというと、親という生き物が「個人主義と共同体主義のいいとこどりをして、『正しい』立場を保ちたい」からである。
親という生き物は、自由恋愛の勝者である。自由恋愛とは、「自分の狙った相手をパートナーとして選び、それ以外は切り捨てる」という個人主義的な性質を持つ。
更に子作りにおいても、先のように「子供は欲しいが、十分な教育投資をできないような数は産まない」という共同体主義に反する個人主義的な行動を、親は選択してきた。
しかし、親が何かしらの理由で糾弾される段になると、「我々は日本国を存続させるために子育てをしている、日本国維持のための犠牲者なのだ。いちゃもんをつけるのはかわいそうだとは思わないのか」と犠牲者ぶる。
自分のために恋愛をし、自分のために子作りをしたにも関わらず、自分が倫理的に不利に立たされそうになると共同体主義を持ち出して「正しさ」を装う。扶養控除や子供手当等で独身や子無しから財産を搾取しておきながら、更なる優遇を貪ろうとする。これが略奪者の欺瞞でなくて何なのだろうか?
子無しが子育てを「なんらかの資本力にすぐれた『勝ち組』だけにゆるされた娯楽的活動」とみなすことに、「子育ては簡単ではないから娯楽ではない」と怒る親もいる。
しかし、「子育ての結果、遺伝的もしくは環境的な要因で優秀ではない人間に育った」ことに対して、親は責任を取ろうとしない。むしろ、一定の年齢を境に「子の人生は子の責任」として、親の責任を放棄する言説がもてはやされている。自分の欲によって産み、都合が悪くなったら自分の製造物に対する責任を放棄するような「責任ごっこ」が、「娯楽的活動」でなくて何だというのか?
かつて、殺人などの重罪には連座制の刑罰が敷かれていた。これは、「親の遺伝的要素や環境が罪人を作る」「罪人を育てた周囲の者にも罪がある」という思想に基づくものに他ならない。こういった思想こそが、真に「社会的責務として人を育てる」者の思想である。
「子連れ様」は、社会的責務として子供を産み育てている訳ではない。自分の欲のために産み育てているのだから、その行動の結果としての周囲への迷惑は、糾弾されてしかるべきだろう。それを被害者面など、強者の傲慢も甚だしい。恥を知れ。
子無しなのに、「子連れ様」のポジショントークに乗っかる者がいるのはなぜ?
子無しなのに、「子連れ様」擁護をしている者もいる。「子連れ様」非難を、「そんなことをやっているから子無しになるのだ」と糾弾する非モテ達だ。
子有りの差別的言論を、なぜ被差別者である子無しがトレースするのか。これは結論からいえば、差別者たる子有りの「正しい」言論の傘に入り、「正しさ」を得ようとする防衛本能的行動であると推測できる。
子無しである後ろめたさから、相反する「正しい子有り様」の差別的ロジックを自分の意見とすることで、「正しさ」のおこぼれに預かり「赦して」もらいたい、という意識である。
はっきりいえば、これは子有りに対する隷属であり、同じ子無しに対しての最も情けない攻撃以外の何物でもない。このような「そういうとこだぞ」論を「子持ち様界隈」は真に受ける必要もないだろう。
子無しよ、差別者に阿るな。阿ったところで子有りがお前を攻撃する手を緩めることはない。目を覚ませ。
まとめ
本記事を通して、下記6点をまとめた。
・「子連れ様」バッシングはけして的外れなものではない
・「子連れ様」が嘯く「困ったときはお互い様」は大嘘である
・「子連れ様」に自浄作用はなく、一括りに「迷惑な存在」として扱われることに抗議する正当性はない
・「そんなことを言っているから子無しになるのだ」は、因果をすり替えた詭弁である
・「子連れ様」は自分のために子を作るのであって、都合のいい共同体主義の持ち出しは詭弁である
・子無しが「子連れ様」バッシングを叩いても、けっして「正しさ」を得ることはできない。「子連れ様」は絶対的な敵だ。「子連れ様」擁護によって「赦し」を得ようとするな。
「子連れ様」は、カースト上位であることを鼻にかけた差別主義者である。被差別者である子無しから「子連れ様」バッシングが起こるのは、当然の現象であるといえよう。
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