「知る」ことと「感じる」こと。
『「知る」ことは「感じる」ことの半分の重要性も持っていない』
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レイチェル・カーソンが最晩年の著作『センス・オブ・ワンダー』の中に遺した言葉にドキッとする。
作家であり海洋学者であったレイチェルは、『沈黙の春』で、誰よりも早く農薬が生態系に与える影響に警鐘をならした。
私はちゃんと「感じる」ことができているだろうか。
あまりに情報が溢れた現代、
「知る」ことを先にしてしまうことが私たちはあまりに多い。
「昆虫」は、足が6本、体が頭・胸・腹に分かれていると習い、
実際にそういう虫を見つけて「本当だ!」と思う。
図鑑やテレビなどで見たことがある、名前を聞いたことのある生物を博物館などで見つけて、思わず「本物だ!」と叫ぶ。
(この場合の「本当」「本物」とはどういう意味だろう…?)
星満点の夜空を見上げて、あれが「北斗七星か」と思う。
それを見つけた、名前を付けた人のことを想って嬉しくなる。
何億光年も前の光、それを研究し、私が想像もし得ない「世界」を見ている人に思いを馳せる。
豊かな「感じる」の中には、たくさんの「知っている」が混ざってる。
「知る」ことで、自分だけではできない「感じる」ができるものだとも思う。
(でも…「知らない」ことは、ただ「感じる」ことを妨げない。)
体験ベースで…とは言うものの、
教育は、やはり「知る」ことを重視せざるを得ないことも多い。
だから、いつも心豊かに「知る」ことの可能性も考えたい。
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「知る」ことと、「感じる」ことと。要はどちらも大切なのだけれど。どうも「知る」ことを強調するときには「感じる」がおろそかにされがち。かと言って「知る」ことがあまりに優先される昨今で、「感じる」を重要視するあまり「知る」こと(体系化された知識)に対して批判的になりすぎる立場にも賛同しかねる。
「知る」ことと、「感じる」こととの役割をつないで言葉にすること。ここ数年の私がずっと考えていることです。
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