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今年は、秋のにおいがしなかった。

朝、ドアを開けて外に出るとき。鼻からスッと抜ける風が冷たくて、背筋がシャンと伸びる。鼻の奥まで冷たくなる風のにおい。まさしく「秋になった」と感じられる日。小さい頃から、1年の中に必ずその日があった。

私は、そのにおいを感じるたび、今日から秋なのだ、と思った。

久しぶりに着る秋服の長袖がふかふかとして気持ちが良くて。
1年ぶりに着る秋服は、「あ!こんな服持ってた!久しぶり!」ってとても嬉しくて。
長袖の秋服を頭から被って、首を出すまでに感じられるにおい、温かさは、夏の薄いTシャツのそれとはまったく違っている。外はどんどんと冷えていくけれど、ふわふわの毛布や、電気こたつが入ったぽかぽかの布団の中で眠るのも楽しみだった。

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たしかに去年まではこの秋のにおいを感じていた。秋のにおいを感じて、冬になった。でも、今年は、その日がなかった。

日々忙しく過ごしている。日々忙しなく過ごす私は、自分の感覚が鈍くなったのだと思った。誰より季節に敏感だった自分の感覚がにぶくなったことを、寂しく思っていた。

12月も半ば。コートをほとんど来ていない。セーターを着ると汗が出る。ある人は、半袖でも過ごせる気候だ、と言う。長く天体を観測している人は、月を見て、「あれは、春の月だ」と言った。

気が付いた。私の感覚が鈍くなったのではない。今年は、「秋のにおい」がしていない。私の知っている冬が来ていないのだ。

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この100年間で、世界の平均気温は0.85℃上昇した(平均気温であるから、局所的に見ると、もっと上がっているところもある)。産業革命以降、人類が二酸化炭素を排出し続けていることで、地球上の二酸化炭素濃度が増え大気圏外に熱が逃げなくなる、地球温暖化によるものだ。

理科教育に携わる身として、地球温暖化をはじめとする「環境問題」のことは学生たちに必ず授業で話をしている。それらの原因、影響、それから対策。地球温暖化の影響による海面上昇や異常気象、生態系の変化、話は尽きない。そして必ず何かしら、行動に移すように声をかける。省エネ、リサイクル、二酸化炭素の排出を抑えることのできる暮らしを選ぶこと。

学生たちは、私を見かける度に、「先生、ビニール袋、もらっていませんよ」とか「最近、古着が好きになりました」とか自慢げに話しかけてくる。

小さな取り組みだとしても、1人1人の力こそが大きな原動力となることはわかっているつもりだ。ただ、国土がすでに沈みかけている遠い国々や、世界で頻発する大規模な自然災害(日本も例外ではない)に対して、あまりに非力に感じられてならない。「地球環境問題」というあまりに大きな問題を前に、自分がやっていること、できることが虚しくてならない。学生たちに、行動に移すよう、と伝える、自分の言葉がふわふわとしてどこか現実味のないものに感じられてならない。

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今年は、「秋のにおい」がしていない。私の知っている冬が来ていないのだ。

「地球環境問題」解決のための行動、なんて、理科教育に携わる私でさえ大きな声で言える自信がない。地球の上に住んでいるにも関わらず、本当に恥ずかしいことだけれど。小さな日常を生きる私には、その壮大なスケールを常に感じておくことが難しいのだ。

でも、「秋のにおい」がしない。背筋がシャンと伸びる、鼻の奥まで冷たくなる風のにおいがしない。私が小さい頃から知っている冬が来ていない。このことは、私にもよく分かる。私が知っている「秋のにおい」がしなくなることは、寂しいし何よりかなしい。

小さな日常を生きる私たちは、自分たちの感覚からしか行動に移しにくいのかもしれない。「寂しいし、かなしい」。この感覚から、環境問題について考えてみることも大切なのかもしれない。

#エッセイ #私の仕事  #科学と物語とをつなぐ言葉 #理科教育  #環境教育

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