◆東京近代水道125周年 その2
現在の東京水道の起源は、江戸時代に整備された6つの上水にまで遡ることができます。
江戸時代に整備された水道は、石積みの水路や木製の水道管(以下、「木樋」という。)などで供給されていましたが、時代とともに老朽化し、衛生状態も悪化していきました。
明治時代に入り、政府は衛生状態改善のために水道改良に向けて動き出し、明治31(1898)年、淀橋浄水場からの給水が始まります。
淀橋給水場からの給水の開始によって、東京の近代水道はその幕を開け、以後、東京の発展とともに急増する水道需要を賄うため、拡張に次ぐ拡張の100年余りを過ごすことになりました。
<近代水道の創設へ>
1.江戸上水の水質汚染
これまで維持・管理されてきた江戸上水でしたが、年を経るにつれて管理の欠如などから水質の汚染が進んでいきました。
導水路では付近の道路等から汚染物質が流入したほか、配水管である「木樋」は継目から簡単に汚染物質が浸み込み、木樋自体の腐食も水中に溶解するなど、その水はほとんど飲用には不適当の状況で、保健衛生上なおざりにできない問題となりました。
明治7(1874)年に東京府(現在の東京都)が行った上水の初めての水質検査は、神田・玉川両上水の水質分析でした。検査の結果、水道の原水として導水路を流れる水の水質は想像されるほど劣悪なものではありませんでしたが、市街地における汚染状況は著しいものがありました。
明治12(1879)年に東京大学理学部化学教授の【アトキンソン(R.W.Atkinson)】は上水井戸及び通常の堀井を調査し、市街の上水が不浄であるのは水源が悪いのではなく、木樋が水質を変化させているためであることなどを発表しました。
翌明治13(1880)年に東京大学理学部准教授の【久原躬弦】らが行った補完調査では、飲料水の汚染について、一部の水は「希薄の尿液と称するも、不可なからん」と酷評され、明治17(1884)年に内務省衛生局が行った調査でも、上流での良好な水質も、人家の密集場所を通過するに従い水質が悪化していくという事実が判明しました。
2.改良水道の計画
(1)改良水道の検討
水道水質の問題は、有識者だけでなく政府も認識していましたが、予算や技術等の制約がありましたが、徐々に水道改良の機運が高まり、近代国家としての体面、衛生上の実情などからも放置できない状況となってきました。
そこで、政府は内務省土木寮雇オランダ国工師【ファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)】に調査を命じます。ドールンは、明治7(1874)年に「東京水道改良意見書」を、さらに翌年「東京水道改良設計書」を提出します。これが東京近代水道の始原であり、日本最初の大都市の近代水道設計でした。
(2)市区改正と東京水道改良設計書の作成
帝都整備、都市計画及び火災消防の側面から叫ばれていた水道改良の機運は、明治19(1886)年のコレラ騒ぎを契機として一層促進され、明治21(1888)年の市区改正委員会の設置により具体化されていきます。
市区改正委員会は、東京の都市計画の中で最も緊要のものとして水道改良の実施を決議し、【バルトン(William K.Burton)】、【長与専斎】、【古市公威】、【原口要】、【山口半六】、【永井久一郎】及び【倉田吉嗣】の7人に調査を委嘱、そしてバルトンの設計を中心に、他の外国人の修正意見や日本人技術者の意見も取り入れ、最終的な東京の近代水道設置計画「東京水道改良設計書」が明治23(1890)年7月に、内閣総理大臣の認可を得られました。
ここで、日本人技師【中島鋭治】は、浄水工場(現在の呼称では浄水場)を千駄ヶ谷村から淀橋町へ、給水工場(現在の呼称では給水所)を麻布及び小石川から芝及び本郷へと変更し、淀橋以西に新水路を築造することの利益を主張しました。
旧案に比較して水利や工事施工、あるいは経済性の面から見て大いに有利であるこの建議は、明治24(1891)年12月の市区改正委員会において直ちに可決され、設計が変更されました。
中島博士は、日本各地の水道創設にも参画しましたが、日本の衛生工学を外国人依存から脱却させたことで、大きな功績として認められています。
3.改良水道の竣工
明治24(1891)年11月、東京府(現在の東京都)庁内に水道改良事務所が開設され、明治25(1892)年に入ると用地買収にも着手し、同年9月には仮事務所の建築、12月には新水路工事と、改良水道の工事も本格化しました。
そして明治26(1893)年10月22日、淀橋浄水場において、改良水道起工式が盛大に挙行されました。
ところが、工事中に発生した鉄管納入の遅延問題、不正鉄管の納入問題など一連の事件は政治問題に発展し、市参事会員の辞表提出、府知事辞職の勧告、市会解散、知事辞職と続き、東京市政を混乱に陥りました。
このような状況を経て、ようやく明治31(1898)年12月1日に淀橋浄水場から神田・日本橋方面に給水を開始、翌明治32(1899)年1月から各戸の給水工事が着手されることになります。
同年2月には浄水された水の供給が開始されたことによって、順次給水区域を拡大、そして明治34(1901)年、市内の旧上水は、天正18(1590)年に「小石川上水」(神田上水)が開かれてから311年間という長きにわたる役目を果たして、廃止となりました。
当時の水道は、一般家庭の場合、各戸に給水されるものではなく、街路に設置された共用の水栓を利用するものでしたが、すぐに容器一杯となってしまいました。また、旧水道では雨天の際には濁りもつきものでしたが、鉄管で密封された水は衛生的にも安全で、その圧力は防火上の効果が十分期待できました。当局者や識者は、防火上の効果も十分期待でき、殖産興業も大いに期待されることから、改良水道の実現を大変喜びました。一般市民は、それまで水道料金は全て地主が負担していたため、新たな負担が生じたことに戸惑いましたが、その便利さに給水量は年々増加していくことになります。
【出典】東京近代水道125年史
【東京都水道歴史館】
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次回 <東京市の発展と水道拡張の必要性>に続く
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