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マン「ヴェニスに死す」髙橋義孝訳①

 夏に行ったヴェネツィア展からヴィスコンティ監督の「ヴェニスに死す」を観て・・・そこから原作のトーマス・マン「ヴェニスに死す」を読んだ。かなり前に読んだけど、一読では消化不良な感じだったので、以来何回か部分的に読み直している。

 実は記録したいことが他にもある。読みたい本もたくさん・・・観たい映画も。そして調べたいこともあれこれ・・。やりたいこともやるべきことも。どうしてわたしはこう落ち着きがないのだろう。体は一つ、時間も限られるというのに、いつも一つのことに集中することができない。性格なんだろうけど、何か一つのことを深く追求することは絶対に向いていないヤツだね(笑)
 でもとにかく、順番に片づけなくてはと思い「ヴェニスに死す」についてまとめ始めることにする。

 さて、わたしが読んだのは髙橋義孝訳。偶然古書で見つけたという理由なんだけど、後日ざっと調べただけで「ヴェニスに死す」を翻訳した人はとても大勢いるということが分かった。ドイツ文学を研究する人たちにとって何か惹きつけられるものがあるのだろうか。
 調べただけでも、高橋義孝の他に、植田敏郎、実吉捷郎、圓子修平、岸美光、野島正城、鈴木道彦、伊藤整、佐藤晃一・・・だもの。
 前置きが長くなるね。でもどうしても記録しておきたい。

 この髙橋義孝は内田百閒先生のお弟子さんだったそうだ。それも「ノラや」に書かれている百閒先生の愛猫「ノラ」が失踪したときに酔っぱらって「もう三味線の胴になっていますよ」みたいなことを言って先生を激怒させ、しばらく出入り禁止になったお弟子さんなのだ。ひどいこというなぁ。わたしは百閒先生の気持ちがよく分かるから、なんて奴だと思っていた。まさかそのお弟子さんの訳を最初に読むことになるなんて。

 すみません髙橋先生m(__)m翻訳はなかなか定評があるらしいですよね。

 さて、やっと本題。
 ヴィスコンティ監督の「ヴェニスに死す」を観たときに、原作で確かめたいと思ったことが二つあった。

①アッシェンバッハの行く末を暗示するようなショットがあるが、原作にも描かれているのだろうか。

 映画では顔に化粧を施した醜悪な老人を、アッシェンバッハが嫌悪感を以てながめるシーンがあった。その後アッシェンバッハは美少年に狂って自身も同じような化粧をすることになるのだが。
 原作にもそこはきっちりと書かれていた。

 よく見ると正真正銘の老人だった。目や口のまわりは皺だらけであるし、頬の薄桃色は頬紅であるし、色リボンを捲いた夏帽の下からはみ出ている褐色の髪はかつらだったし、・・・中略・・・。アッシェンバッハはぞっとする想いで・・・略。

 ②見た目滑稽で惨めな死を迎えたアッシェンバッハだが、彼の精神はどうだったのだろうか。

 これは結論だけ言えば、決して惨めな死ではなかったと思う。
しかし、年甲斐もなく化粧をし、寂れた浜辺で息絶えたアッシェンバッハを敗者と見ることもできるかもしれない。

 これについては、訳文の叙述に即して記録したいので次回に・・・。

 なんだ、結局肝心の本についてはほとんど書けなくて、愚痴みたいになってしまった。