5年日記に心はあるか
2020年2月6日 私は育児の様子を残すために5年日記帳を買った。
5年間、同日の日記がずらりと縦に並んでいて、あの年の同じ日がすぐに参照できる日記帳。
2024年も終わりに近づき、日記帳の日数もあと少し、もうすぐ終わろうとしている。
毎日書けたわけじゃない。空白の日もある。
後半は月曜日にまとめて先週分を書くという「週記」と化していたけれど、そんな自分も許すことで、無事もうすぐ終わろうとしている。
週記になってからは半分義務感で、月曜日の早朝に30分以上かけて書くのを大変に思い、もうやめようかな?と何度も思った。
それでも続けて来られたのは、この5年間が、もう2度と来ない、いつか戻りたくなる日々なんだと常に思って暮らしてきたからだった。
ほんの些細な変化を日々残した。
昨日できなかったことが今日できるようになった、
こんな面白いことを言った、
これがいつまで経ってもできるようにならない、
保育園の先生がこんな様子を教えてくれた、
こんな理由で泣いて、
こんな風に笑った。
書くことが思いつかない日は、前年までの欄を見て、それに対して返事を書いた。
いつまで経ってもできるようにならない、という嘆きに、「今はできるようになった」とか。(「まだできない」とか)
当時好きだったものを、今はもう忘れてしまっている、とか。
他の人から見るとどうでもいいような毎日の記録だけど、
5年間を通すと、ほやほやな赤ちゃんがどうやっておませでやんちゃな私と僕になったか、の長い物語になった。
日々の生活、色と匂い、もう戻らない声やあたたかさ、柔らかさ。
そしてこれを書き続けた私の、いつか戻るために残したいと言う思い。
そんなものが詰まった私の人生の宝物。
ありがとう、と言う気持ちでこの日記帳を閉じたい。
ところで、日々の生活にまつわる事柄で、この日記帳から抜け落ちているものがある。
日記帳には徒然と、「こんなことがあった」という事実は書かれているけれど、「だから、こう思った」と言う私の感情、気持ちはほとんど書かれていない。
時間的余裕がなかったり、後追い日記のため新鮮な感情を持ってペンを持てなかったり。
そもそも、事実しか書いてなくても、私が読めばその時の感情に戻れるはずだ、と言う甘えもあった。
それより何よりも、心が動きにくくなっている実感が、大いにある。
これから、また新しい5年日記を買おうとしている。
新しい5年間には、今までの子育てでは起こらなかった、私の苦手な分野の問題がたくさん起こるだろう。ここからが本番だ。
それに、35歳になって、人生折り返したかもしれない私は、どんな生き方をするか、改めて考える時期に入っている。
ここからの5年日記には、そんな私が何を見て、どう思ったのか、どうしたいのかを、その日のうちに書きたい。
むしろ、その日の夜に日記を書くために、心を動かして生活する、と決めるのはどうだろうか。
日記を書くことを目的に、生きる。
そうやって生きた5年後の40歳の私は、どんな風になっているか。
子どもの成長と同時に、自分の成長も楽しみに、日記帳を選んでいる。