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書く理由。わりとシンプルな動機

小説家になりたいとか、文章を書く仕事をしたいとか。それは自己実現だとか。私が書き続けているのはいくつかの理由がある。が、それはあとからできた理由だよなって最近思う。

たぶん、書かずにはいられないのだ。文字にして残しておかずにはいられないのだ。

文字にして残してきたことが、私の生きた証だと思うからだ。

記憶というものは、すぐに流れて、どんどんとぼんやりとして、いつのまにか消えていく。こぼれ落ちていく。
それは、はかない。はかないものと分かっているからこそ、これは消したくはないと思う記憶を記録として残しているのだと思う。

写真が、その瞬間の風景を切り取るものだとするのならば、
言葉は、その瞬間の想いを、感情を、浮かびあがらせるものだ。

写真は現像すれば、画像データにすれば、目に見えるものとして残る。
言葉は口から出た瞬間、耳に余韻として響くだけで形には残らない。
そして、
口に出さずに飲み込んできた言葉たちは、お腹の中で、頭の中で、胸の中で、それはどこかわからないが、私の内側に溜まり、他に飲み込まれてきた言葉たちの重みでつぶれていく。

私の中で浮かんできた言葉達は、私の生きた証でもあって、
それが綺麗なものであろうと汚いものであろうとも、生きた証だ。浮かんできたもの、生まれたものをなかったものにすることは忍びない。

とはいえ、
言葉をすべて口から出すわけにもいかない。それは誰かを傷つける可能性もあるし、自分も傷つく可能性もある。そこは慎重にならざるをえない。そう考えて、たぶん、いろんな言葉を想いを飲み込んできている。意識的にも無意識的にも。
だからこそ、誰に見せるわけでもない、手帳やノートに正直に書くと、溜まったものが吐き出されてすっきりするし、またいつか記憶を思い出したいときの手がかりとなる。

そうやって、書き出された言葉達、そこから浮かび上がる記憶たちを第三者目線で見たとき、物語が浮かんでくる。自分の記憶だけでなく、どんどんと派生して、それは妄想と言えるのかもしれない、別の世界が見えだして、それが創作のはじまりだったなと思う。

小説をはじめ、創作されたものを読んで、感じて、自分の出来事ではないのに、まるで自分事のように、心が揺さぶられて、それはある種快感で、それを味わうだけでなく、自らが作り出せたとしたら、影響を与えられるとしたら、どんなに面白いだろうか、どんな快感であろうか。
そんなことを思いながらは、私は日々創作のことを考えるのである。

浮かびあがってきた言葉たちを整理して、塊にして文章や物語にしていく作業というのは、労力が必要だし、体力がないときはできないのだけども、出来た上がったものを読み返したしたとき、
これ、自分が創ったものなのだと、半ば信じられない気持ちになる。自分の内側から出ていき、外側に存在するそれは、また違う雰囲気を醸し出している。別の生き物が生まれたかのようだ。その衝撃や快感を味わったら最後、やみつきになる。
しばらく筆を休んでいたとしても、また書いてみたいと思う。

プロじゃないし、私が勝手に思っているだけだけど、誰がなんと言おうと、私は、作家だ。
ときに小説家になり、エッセイストになり、詩人になり。形はかえども、作家なのである。


日々浮かび上がった言葉や思いを記録するのに活躍している手帳について語っているのがこちら
「小説家志望の会社員の手帳選びポイント」

一書き手として色気を大切にしたいと語っているのがこちら
文章からそこはかとなく漂う色気について

そんな私が日々書いている小説がこちら。連載です。
あしたの転機予報は?

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