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父が難病指定された話

そろそろお正月休みだー!10連休だし何しようかなー!なんて例年どおり浮かれていた2019年12月26日。父が入院しました。
確か母から報せを聞いた時の第一声は「あーあ言わんこっちゃない」だった気がします。

というのも、夏の終わり頃から「食欲がない」なんて言い出し、食べる量がごっそり減っていたからです。最初は「夏バテかも」なんて本人も気に留めていませんでしたが、10月後半あたりになっても一向に回復する様子を見せないので、家族からは食事のたびに「早く病院行きなよー」と言われていたそうです。わたしも実家に帰る度に軽い警告はしていたと思います。
しかし父の病院嫌いも頑固なもんでまぁ粘る粘る。
「今の仕事が落ち着いたら行くって」とか何とか言っているうちに1週間、1ヶ月と過ぎ、その間にも食べられる量はみるみる減り。

会うたびに警告することも忘れ始めた12月25日の夜、けっこうな時間トイレに閉じこもり(多分戻してたんでしょうね)生気のない顔でふらふら出てきたと思ったら伯母に一言「病院に連れて言ってくれ」と言ったそうです。
そして車に乗り込む間際、母には「多分さ、入院することになると思う」と言ったんだとか。

いやー改めて聞くとほんと馬鹿な話だわ父よ。
頑固もここまでくると病名ですね。

その日は夜遅かったので、腹痛や吐き気を抑える薬をもらって一度帰宅。次の日の26日、採血とCTとエコー検査の結果、即入院という流れに。
最初の診断名は、急性膵炎でした。

“急性膵炎とは、膵臓の急性炎症で、他の臓器にまで影響を及ぼし得るものです。 急性膵炎の2大原因は、アルコールと胆石です。 急性膵炎の最も多い症状は、上腹部痛ですが、背部まで痛みが広がることもあります。 ほか、嘔吐、発熱などの症状や、状態が悪化すると、意識障害やショック状態など重症化することもあります。”
(一般社団法人 日本肝胆膵外科学会HPより引用)

案の定かなりの状態だったようで、あと数日遅かったら死亡率が40%くらい跳ね上がってたかも、との事。膵臓から出た毒素が他の消化器系に回ってボロボロにしていくのだとか。ボロボロになりすぎて完全に内臓が壊死してしまうと死亡率が一気に上がるということらしいです。
父の場合、血液検査での数値が下がらないと内視鏡も入れられない状態だと言われました。「ボロボロの状態で無理にカメラ入れると簡単に破裂したりするんですよー」と先生。

ひ、ひぇぇぇ破裂!?怖すぎる…

そんなこんなで、まずは内視鏡検査ができる状態まで持って行くため、内臓の炎症を治すところから始まりました。そう、絶食です。口から一切の食事を断ち、点滴のみ。
最初は「元から食欲なかったし何ともない」とか余裕抜かしてたのに1週間過ぎたあたりから「牛丼食いたい」だの「カツ丼食いたい」だの始まったので、まあお見舞い行くたび目の前でごはん食べてやりましたね。「体を粗末にしたことを悔い健康の大切さを噛みしめるがいいフハハ!!」とか言いながら。(お向かいのベッドの患者さんに笑われました)

2週目になっても血液検査の結果がまだダメで、思いの外絶食期間が長くなりそうとのことで腕の点滴から首のカテーテルへ。首に太い管を繋げている父の姿はさすがに痛々しく見えましたが、このあたりから一気に顔色が良くなり始めました。首からだと栄養の吸収率が全然違うらしいですね。
なんとか食事をしていた入院前より絶食して点滴だけの今の方が元気とかどんだけぇ〜〜!!だわ…よく生きてたな父よ。(全然褒めてない)

3週目に突入し、ようやく1回目の内視鏡検査。
膵臓以外の数値がかなり下がったのでとりあえず胃までをカメラで診てみましょう、という運びに。ちなみに完全麻酔。口からのカメラでオエッてなったり痛みや緊張で体を強張らせるだけでも内臓に負担がかかるのだそう。
(そもそも口からカメラ入れるとか体の構造上あまりにも非人道的だしそりゃ苦しいわ完全麻酔が普通だろって思ってますが)

完全麻酔の時はできれば付き添いがいた方が…と言われたので、検査が終わる頃を見計らって仕事を早退。病室で待っていると担架で運ばれてきた父。なぜかこちらにひらひら〜と手を振って、えっ、もう目覚めてる!??

「検査が終わってすぐ麻酔から覚醒する薬打ったんですけど、秒で目覚めましたよ〜。あ、寝るのも早かったですね。」
と先生。ちょっと笑った。

とりあえず胃までの消化器官は炎症の跡がすごいけど、ほぼ治っているとの事でひとまずちょっと安心。
「あれはね〜かなり痛かったと思うよ〜随分我慢強いんだねお父さん」って言われましたが違うんです先生頑固で病院嫌いなだけですほんとスミマセン。

そしてその5日後くらい、2回目の内視鏡検査。今度は膵臓まで診るということになったのですが、後日父から聞いた話によると先生が検査前「ちょっと引っかかることがあるから念入りに調べてみるね」と言ってたとか。つまりこの先生の予感が見事的中したことになるわけです。
その日は仕事の都合で病院に行けず、麻酔から目覚めた父本人からLINEで報告を受けました。


「なんか麻酔が覚めきってなくてふわふわしてたんだけど、難病って言われた」


難病。なんびょう?
難しい病って書く、あのなんびょう?

こんなにも漢字二文字がピンとこないことって今まであったかな。
正直、癌とかを覚悟していたので変に拍子抜けしたというか、あまりにも変化球でした。そう来る?って感じ。

二度目の内視鏡検査で明らかになった病名は、
自己免疫性膵炎(IgG4関連疾患)

母からは「もう連絡いった?難病だって、一生治らないってことかな」とか返信に困るLINEが飛んでくるし、身近な問題になった途端『難病』という言葉が全く飲み込めなくなってしまい、いろいろ調べてみたりもしました。

「難病」という言葉を聞くと、「治りにくい病気」「重い症状が出て、寝たきりになってしまう病気」といった印象を持つ人もいるかもしれません。しかし実際は、これまでの難病対策の成果として、医療の進歩などにより日常生活において全面的な介助を必要とする人は一部で、症状が安定し、ほぼ問題なく日常生活を送る人が増えています。その一方で完治は未だ難しいことが多く、軽症を維持していても、定期的な通院と服薬等、生活における自己管理が不可欠です。
(LITALICO仕事ナビHPより引用)

などなど。
こうして改めて調べてみると、一昔前より「死」とか「重い病気」に直結するイメージが払拭されていて、かなり前向きな印象を受けるなぁというのが率直な感想。これぞ医療の発達と文章の力。
もちろん父の場合、免疫力が自分の膵臓を攻撃する病気なのでそれらを抑制する薬を飲み続けることが必須になるでしょうが、極端に余命が短くなったとか、仕事が続けられないとかではなさそうなのでそれだけは安心しました。

とは言えこの記事を書いている現時点で、これからの先のことをまだ先生の口から詳しく聞けていないので、わたしたち家族がどう対応すれば良いのか不明瞭な部分は多いです。
(難病指定患者に適用される医療費助成のなんちゃらに必要な手続きがどうちゃらとか事務的な話はすぐされたのにな…イマイチ説明不足な部分が多いというか透明性に欠けるというか、こんなもんなのでしょうか?)

進展があったとすれば入院から1ヶ月経ってようやく、口からの薬の服用と食事が始まりました。
「次の血液検査の結果が良ければごはんが食べられるかもしれない」となった時点で外出許可を取りわたしを呼び出し、ごはんですよ!やミニ納豆を買い漁るテンション爆上げの父。そりゃ1ヶ月も絶食したら飛び上がるくらい嬉しいよね…。
「今だったらこんにゃく食べても泣くかも」には笑いましたが。

食事が始まった初日は母がお見舞いに行ったのですが、案の定「久しぶりなんだから落ち着いてゆっくり食べなさい!」と叱られるほどの食べっぷりだったようです。数ヶ月ぶりのごはん完食。

それからというもの、最低限の連絡しかしてこないタイプだった父が、毎日食べた献立をLINEで送ってきます。そりゃもうこと細かに。味噌汁に具が入ってなかった日は不満を零してますが、『食べられる』という幸せを人生史上最高に噛み締めてる模様。
そうだよく噛め!噛み締めろ!!そしてゆっくり食べろ!!笑

数値が下がるまで退院はできないのでまだ目処は立っていませんが、顔色はすっかり良くなり、入院当初よりもすたすた歩き、わたしのiPadと3DSを貸し与えても暇を持て余し、特にどこが痛いとかもなく、体感的には全然元気らしいです。

難病と診断される前と後で何か変わったのかと言われると、何も変わってないんですよね。そりゃあそれなりの衝撃は受けましたが、大きな病気をした時点で退院後も通院やケアが必要になることは目に見えてましたし、当の本人も特に気負っていないようですし。

というけで、年末からのバタバタをちょっと記録に残してみました。文章に落とし込むとさっぱりすることってありますよね。
まだもう少し病院を行き来する日が続きそうなので、程良くアウトプットしながらバランスとって過ごそうと思います。



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