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受動的に自己を開く2

前回の記事では、基町や僕の美術について少しだけ触れました。今回は、僕の基町での活動について、少し詳しく説明(あるいは、より一層意味不明に?)してみたいと思います。

美術なんかで表現すると言えば、たいていは能動的に、はきはきと何かを見せるという感じがするけれど、僕が場所や人と関わるというときは、なるべく能動的に押しつける態度で臨むのではなくて、数名の住人に運よく出会い、その言葉や行動、場所を、まずは眼差すことから始めたいと思っています。そうは言っても、全てをただ受け入れるような心づもりでは、ただその場でひっそりと生活しているのと変わらないので、なんとかして同時に自己を開かなくては、関わりが生まれません。そのため、関わるためのきっかけを用意する必要はあります。この意図的な「きっかけ」が美術や表現になるのかもしれないなと思っています。

じゃあ、この「きっかけ」を今回どうするのか?
僕は、ワークショップのようなものという形で提案してみようとしています。多様な住人がいる基町地区で、そして限られた時間で、誰とどのように出会えるかのか、正直言って、上手くいくのか今のところあんまり自信はありません。だけど、なんとか(無理矢理?)対話のできる設定をこちらが用意することで、対話の中から何かが生まれることを目的としています。働きかけることで、相手のことが見え、僕のことも見えてくるような。そんな何かができたらと思っています。

それで?結局何するん?と思われるでしょうが、正直言って、自分でも、どうしようかなあ...という気持ちで今やっていて、今の僕の状況を正確に知ってもらうには、これから綴っていく、日記みたいなものを読んでもらって僕の気持ちを推測してもらうしかないだろうと思います。基本的には、「ショッピングセンターで、僕が何かをしていたら、誰かが来た。誰かが来たから、何かの話を始めた。」というような出来事をいくつかつくりたい。そういうことになります。今、コア(僕が展示させてもらっているギャラリー)で見せている、中国でやったプロジェクトも、これと似たような活動でした。この作品は簡単に言ってしまうと、僕が友達が欲しいと思って、一人の青年のもとを頻繁に通うようになったことを「きっかけ」として生まれた作品です。え???何?って感じですが、本当にそうで、頻繁に通うことで、だんだん仲良くなっていって、いくつかの活動を一緒にするようになっていったという作品です。

こう聞くと、関係性の美学とかいう言い方が最近の美術にはあるのですが、それかな?と思う、美術の玄人がいると思います。これは、人と人や、人と社会など、ある関係を素材にした作品のことを言います。僕のこの作品も、そのような関係性に基づいた作品のように思い、知識のある人は逆に熟慮してくれないのですが、実際には、これらとは全く違うものだろうと、僕はかってに思っています。なぜなら、僕は、いつも一対一の関係を扱っているからです。関係性の美学等、それに準ずる美術が扱っているのは、プライベートなことよりも、より公共的で、社会的で、政治的なものという特徴があるからです。僕は、とってもプライベートな対話を通して、表面的には僕達の間に起こっていることを見せているにすぎません。

さて、ちょっと長くなってきたので、いったんここで文章を終えます。次回からは、滞在を通した日記的なものをつらつらと、反省文のように書いていってみようかなと思います。

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