[日日月月]12月2日、残すことについて
紙の本は残る、デジタルは残らない、という話をよく聞く。
正直なところ、違和感がある。デジタルだって何らかのログとして電子の海に残り得るからだ。だからデジタルは残らないとは思わない。それに、紙の本が残るのは、残そうとする人がいるからだ。何もしなければ自然界に還っていく紙の本を、残そうとする人たちのことを知りたくて、『mahora』第4号では本の修繕の現場を取材した。
しかしあらためて思う。
そもそも、残るとはどういうことなのか。
八燿堂は「200年後の生態系と共存・共生する本づくり」を掲げている。もちろん道半ばだが、出版における持続可能性について、紙や流通、労働のあり方などさまざまな側面から試行錯誤をしている。
「200年後」という言葉の発端は、単なる思い付きだった。八燿堂を開始し『mahora』を創刊した2018年、知人から「これからどんな本をつくるのか?」と聞かれたときに、ぱっと思い浮かんだのだ。「200年後の人に発見されたい」と。
降って湧いた言葉だったが、あとあと考えるとしっくり来た。自分も子どもも孫も、知り合いも誰も生きていない遠い未来に生きる人から、「こんなことをやっている人が昔いたのか」と発見されたとき、初めて自分の行っていることが、確かになるような気がしたのだ。「未来に裏付けられる」と言ったほうがいいだろうか。
そう思いながらこれまでの6年間続けてきた。
間違っていなかったとは思う。
けれども最近、大きな気づきがあった。
『sprout!』の取材で、長野県天龍村で昔ながらのお茶づくりを続けているヨアケ茶園の前田美沙さんのもとを訪れたときのことだ。
中井侍(なかいさむらい)という、そのめずらしい集落には300年続く在来のお茶の木があるという。かつ、無農薬無化学肥料で昔ながらのお茶づくりを続けている、と聞くと、古来の知恵や伝統的な文化を継承しようと努力している方たちと同じように、前田さんも昔のやり方を保存・維持することに関心があるのだろうと、思っていた。
けれども違ったのだ。前田さんはこんな風に言った。
言われてみれば確かにそうだ。京都は1000年の都と言うし、縄文の文化は1万年続いたという。だからたいしたことないということではなく、やり直しがきくということだ。300年続いて、たとえいま潰えたとしても、誰かがどこかで別の何かを始めればいい。ものすごく大きな視点で見れば、そんな「繰り返し」で宇宙はできているのではないだろうか、と。
それに、よくよく考えてみれば、「永遠に存在するもの」は自然界ではあり得ない。命は生まれ、いずれ死にゆくし、形あるものは必ず崩れていく。けれども、なくなってばかりではなく、なくなるそばから新しいものが生まれていく。あるものは、別の何かの一部となって。この現象は、「繰り返し」というよりは「循環」と呼んだほうがよさそうだ。
だから、何かが「残る」ことは、ほとんど「異常」だと言えないだろうか?
逆に言うなら、何かを「残す」行為は、特に人間に顕著に見られる、独特の営みであると言えないだろうか?
強引にまとめるとこうなる。
宇宙や自然、生態系では、不変の存在はあり得ない(すべては循環する)。
何かを「残す」行為は、人間に与えられた営みである。
これをどうとらえればいいだろうか?
人間は、何かを「残す」行為をあきらめたほうが、自然界のあり方に沿って生きていると言えるのだろうか?
あるいは「残す」という行為において、人間という存在が負う役割のようなものがあるのだろうか?
実は『sprout! 2024 WINTER ISSUE』をつくりながら、いよいよわからなくなってしまったのだった。どちらも正しいと思うからだ。
『sprout!』ムック版創刊に際して、「森と本の循環をつくりたい」と書いた。端的に言うなら、森から紙・本はつくられるが、本から森へのフィードバックが現状の出版界の構造では少ない。これをめぐらせるために、「地域の荒廃森林から紙をつくり、その紙から本をつくり、地域に循環させる」という「本の地産地消」のビジョンを描いた。
これは、「本を生態系の一部として位置づける」ということだ。だから、
宇宙や自然、生態系では、不変の存在はあり得ない(すべては循環する)。
これに沿っている。『sprout!』では、紙の本が残ってほしいという気持ちはあるものの、それよりも「本が自然に還る」「それによって自然がより豊かになる」という、環境再生型のあり方のほうに重きを置いているからだ。
では、何も残らなくてもいいのか?と考えると、そうとも言い難い。
なぜなら私は人間として地球という星に生まれてきたわけだから、人間としての生命を思う存分楽しみたい。生態系や宇宙が何と言おうが、人間らしく生きたい。悟るなんてご免だ。むしろ生態系や宇宙は、(もちろん度はあるにせよ)そんな人間の「自由な」生き方だって許容してくれるはずではないか。
特に『mahora』は200年後の人たちに発見されたいと強く願っている。200年後に「紙の本」という物理的な状態で「残る」かどうかはわからないが、何らかの形で、とは思う。それが自らの存在証明のようなものだと……
いや、これは人間のエゴなのか?
まるで執着のようなものではないか?
そんな思いを抱えながら『sprout! 2024 WINTER ISSUE』を先日校了した。
宇宙や自然、生態系では、不変の存在はあり得ない(すべては循環する)。
何かを「残す」行為は、人間に与えられた営みである。
この矛盾のような問いに対する暫定的な答えは、自分のなかでもう出ている。
が、いまはもう少し寝かせてみたい。
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