[interview]#10 佐々琢哉さん(高知県四万十町)※特別編
佐々琢哉さんのことをどう紹介したらいいか迷いますが……20代から旅を志し、バックパックで大陸横断したのち、レインボーギャザリングやホースキャラバン(ともに後述)に参加するなど60か国以上をめぐったあと、30代で高知の四万十に移住。現在は自給自足を試行しながら、瞑想したり、音楽を演奏したり、絵を描いたりする生活を送っている……と、とりあえず言っておきます。
要するにそれだけでは伝えきれないということで、人によっては華やかにも見える部分の奥に、内面の葛藤や心と行動との精査があるのが、佐々さんの本質なのだろうと感じます。ぜひじっくり読んでいただけたら(このインタビューは2024年3月28日、長野県御代田町のatelierRomで行われた「TABIのお話会」の模様を採録・編集したものです)。
編集・聞き手・構成=岡澤浩太郎/八燿堂
写真=尾嶝太(top)、佐々琢哉 except(*)
企画=渡辺敦子/Zen
協力=岡本雅恵/atelier Rom
※インタビューのダイジェストはポッドキャストで公開しています
生まれも育ちもシティボーイだった
岡澤浩太郎(以下、岡澤) 私が佐々琢哉さんと初めて会ったのは、たぶん10年くらい前で。編集者で詩人の服部みれいさんがやっていた『murmur magazine for men』という雑誌の編集を私が担当させてもらっていたんですが、これがきっかけで佐々さんのことを知った記憶があります。
それで、佐々さんが当時やっていた「TABI食堂」というローフードのサラダを提供する食堂に行って感動したり、この間は佐々さんの絵の個展『四万十の日々』(omotesando atelier奥の部屋)を見に東京に行ったり……。
岡澤 佐々さんは2023年11月に、自分が経験してきた旅を振り返った『TABIのお話会』(TABI BOOKS)という本を刊行されました。今日はその旅の話や、旅を経て移住した高知県四万十市の暮らしについて聞いていこうと思うんですが……。
その前に、佐々さんは小学4年生から5年生の2年間、長野県の旧八坂村(現・大町市)に山村留学していたんですよね? 旧八坂村には私も行ったことあるんですが、結構ハードな場所ですよね(笑)。
佐々琢哉さん(以下、佐々さん) 僕の両親は共働き、僕はカギっ子で、いつもひとりで家でテレビを見ていて。それで両親は、「野山を駆け回っていろいろな経験をしてきたら?」と送り出してくれたんですけど、僕は全然興味なくて(笑)、大好きなサッカーをやる友達がその村にいなかったからイヤだったんです。
岡澤 もともとは東京生まれのシティボーイだったわけですよね?
佐々さん そうですね、マンションの14階で生まれ育って。
岡澤 それがいきなり八坂村に。
佐々さん その前に伏線はあったんです。春休みや夏休みにポニーキャンプに行ったり、無人島に行かされたり(笑)。そうしたら今度は「八坂村に行け」と。
岡澤 東京からああいう、自然豊かというかワイルドな環境に行くと、何もかも違いますよね?
佐々さん でも子ども目線では、「いつも駆け回っている場所がある」のは似ていた気がする。
ただ、自分の家なら好きなときに冷蔵庫を開けて勝手に食べていたけど、朝昼晩以外は何も食べられなくて、いつもお腹が空いていましたね(笑)。あと登下校で、片道4キロの山道を歩かなきゃいけなくて……。
岡澤 毎日往復8キロは大変ですね(笑)。
佐々さん でも途中で「ここの湧き水は美味い」「こっちのほうが甘い」とか、食べられる木の実を見つけたり、しまいには田んぼの生米を食べたりしてました(笑)。そういう、「食べられる楽しさ」は登下校中にありましたね。
岡澤 じゃあ、わりと楽しめた?
佐々さん 楽しかったんですけど、当時はまだヤンキー文化がまだ残っていて、同じ山村留学生の中学生からいぶられたりしたのはつらかったですね(笑)。だいぶ鍛えられましたけど。
岡澤 しかも、1年で終わるかと思ったら、両親から「もう1年行け」と言われたんですよね?
佐々さん すごくショックで、村からどうやって逃げ出そうかという夢を、30歳過ぎまで見てました(笑)。
長い長い旅の始まり
岡澤 その後、晴れて東京に戻り、それまで通りの生活を送るんだけど……大学のときにロンドンに語学留学に行くんですよね。ここから佐々さんの長い長い旅が始まることになる。
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