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年間テーマ評論〈幻想とリアリズム〉③富田睦子「美しく、恐ろしく」

美しく、恐ろしく  富田睦子

 齋藤史は樋口覚との共著『ひたくれなゐの人生』の中でこのように語っている。

 樋口 そういう身の周りで感じた心境をすぐ安易に歌にしてしまうことに対して抵抗してゆきますね。そうした姿勢を固めていくというのは相当リベットを打ち込み、自分の世界を作ってないとできないですね。
 齋藤 私はね、現実をしっかり踏まえないで飛び上がることはできないと思っているから、現実も大切にしているの。だけど、それに「べた」つきになったら今度は飛べない。精神の飛翔を失くしたら、詩が堕ちるでしょう。 ※原文は「べた」は「」ではなく傍点
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 本年度の年間テーマは「幻想とリアリズム」である。辞書的な説明では、「幻想」とは、現実にないことをあるかのように思い描くこと。対して「リアリズム」とは現実をあるがままに再現しようとすること。
 現実にないものと、あるもの。一見対立するように見えるが、「あるかのように」描かれたものと「ありのままのもの」との関係はそんなに簡単なものだろうか。

 かがやきて海にゐし船いつしかも消えて一人の夜の窓となる  馬場あき子『青椿抄』
 夜と窓は強くつながるその先にひとりぼっちの戦艦がある  平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 
 一見して道具立てが似ている二首である。
 馬場の歌は、出かけた先で夕映えの海に浮かぶ船をきれいだな、と眺め、ちょっと用事を済ませているうちに窓の外が暗くなったという実景から、寂しさや無機質さ、一瞬の心の空虚を捉えている。電灯をつけた室内から見た窓は真っ暗で、あれほど輝いていた船はすでに見えない。ただ四角い暗闇が窓の形に切り取られて見える。閉ざされているような孤独。
 平岡の歌は逆に夜になった窓の漆黒の中に「戦艦」が現れる。おそらく「戦艦」は暗喩で、戦艦のように大きくて危険や不安をはらむ物騒なものがその物騒さゆえに「ひとりぼっちでいる」という孤独を表しているのだと読んだ。戦艦は自分自身の、あるいは他の誰かの攻撃性であり、窓の向こうの、遠いけれども見える範囲に確実にあり、暗闇の中ときおりその姿が切なく見えてくるのだ。
 馬場の船はすでになく、孤独を与えるのは「夜の窓」である。そのあたりが単なる写実とは一線を画すし、この頃に相次いで亡くなった友や家族と過ごした日々が船の存在と重なるかもしれないが、ともあれ読者はさっきまであった船の存在を疑うことはない。
 対して平岡の戦艦は「ある」と断言しているにも関わらず幻、あるいは概念として伝わってくる。一首を実際に港に戦艦が入港したところだと読んでみることもできないわけではない。横浜の港にはアメリカの原子力艦が寄港している。宿泊先の、自室より大きな窓からその船が偶然に見えた非日常を捉えたとしたら、それはそれで悪くない歌ではないかと思う。だが、それでも「ひとりぼっちの戦艦」はそこに存在する船一隻の実存を表すわけではなく、なにか暗い力の象徴としてぼんやりと居座る。
 改めて二首を読んでみると船の存在をより物質として濃く感じるのは不思議なことに平岡の歌でなのだ。馬場の歌はむしろ船は景であり、歌の肝はひとり・孤独という概念である。船は、消え去った過去、幻とも読めてくる。
全く、幻想とは、リアリズムとはなんなのだろう。

 齋藤史は同じ本の中でまたこのように言っている。

 樋口 こうした(注・桶谷秀昭著『昭和精神史』)桶谷さんの論を読むと、この『魚歌』の中の歌と言うものがまた深みを持ってみえてきます。これもモダニズム系の、単なる象徴短歌と言えば簡単なんですけどね。
 齋藤 単なる、とは言えないですね。意識してカモフラージュしたところあるんですから。そうしなきゃ発表できない情勢の中、苦しみを吐きたい。しかしリアリズムで書けば通るはずはありません。あの手法しかなかったのです。

 『魚歌』に限らず齋藤史の代表作と言えば昭和十一年の二・二六事件後に作った「濁流」であろう。

 濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ   齋藤史『魚歌』
 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたうわが子守うた

 これらの歌はなるほど、苦しい立場の中でのギリギリの表現だったであろう。
 昨年の現代歌人協会主催の公開講座の中で佐伯裕子が語っていたのだが、戦前の軍人の家族というものは何家族かで塊になり全国を転々とするもので、その中で男子も女子もなく一緒に学び、一緒に育てられたのだという。そこにはきわめて強い結びつきが生まれる。私はそれまで「幼馴染の青年将校」という表現をそれほど重く受け取っておらず、「子ども時代のとはいえ知り合いが処刑されたらそれはショックだろうな」くらいに捉えていたのだが、彼らと兄弟姉妹同然の関係だったとすれば、事件は(自身の父親が関わっているということを除いても)一生を引きずるような衝撃的な経験だったはずである。

 動乱の春のさかりに見し花ほどすさまじきものは無かりしごとし  齋藤史『魚歌』
 夜ふかく湖(うみ)の底ひに落ち沈む石の音ありてわれを嘆かす
 ほろびたるわがうつそ身をおもふ時くらやみ遠くながれの音す


 昭和十三年に詠まれたこれらの歌も半身のようだった友を思っての作品であろうし、昭和十五年、あるいは十六年の
 こころよりあふるるものに身ぶるひて叫ぶ鳥ありせつなきかもよ  齋藤史『朱天』
 思ひふかく見てゐる花のくれなゐやいのち惜しめと言へど果(はた)さぬ

のような作品も、単に花鳥風月や一瞬の感傷を歌ったものではあるまい。

 さて、齋藤史は心の花の歌人であった父瀏の縁もあってずいぶん多くの歌人に会って十代から短歌を始めている。なかでも石榑(五島)茂、前川佐美雄、石川信雄らとは同人誌や「短歌作品」(のちの「日本歌人」)の創刊など行動を共にしていて、影響を受けていたようだ。
 前川佐美雄や五島茂は、昭和初期(3年~)の新興短歌運動で「アララギ」を中心とした既成の短歌を否定する新しい潮流の中心にいた人で、これは口語・文語、自由律・定型律、プロレタリア短歌・モダニズム短歌と組み合わせ無限の運動であったらしい。
 プロレタリアとモダニズムは今見ると対極にあるように思うが、口語自由律などで共鳴する面があったようで、昭和3年9月には「新興短歌連盟」が成っている。ただし、歌誌の計画段階で内部対立、創刊する前に二か月で解散となった。
 その後プロレタリアは無産歌人連盟をつくり「短歌戦線」を、五島・前川ら芸術派は「尖端」をそれぞれ創刊するが、翌昭和4年7月には再び合流、「プロレタリア歌人連盟」が成立、9月には「短歌前衛」が創刊(5年に「プロレタリア短歌」に改題)されている。

 この間の運動の中に史の名前は見つけられない。前述の前川らとの同人誌と「短歌作品」創刊の間の時期にあたるが、年譜によると昭和3年に史はむしろ、短い間ではあるが「アララギ」に入会している。それにはまだ若い年齢や家庭環境などを含め色々な事情があっただろうが、一番にはやはり史自身が調べを生かす従来型の端正な短歌を志向していたことがあるのだろう。

 一方で前川らから自由な表現方法を吸収し、一方で地に足をつけた型を身につけ、それが苦しい現実に際し史を救ったのではないだろうか。
 齋藤史の歌には戦後に至っても

 狐 狐何をせつなく悔(くや)むぞと聞き居てしばし遠しそのこゑ  齋藤史『うたのゆくへ』
 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼(め)を開き居り
 このひとすぢの手綱はなさず生きてゆく氾濫の日も狂気の中も


 など強く生死の無常観がにじむ。戦後も数年が経過した後は題材を慮る必要はなかっただろうが、そののちも現実との距離の取り方は詩的飛躍の方法として史の歌作を支えたことだろう。
 現実に対する抵抗を、写実ではなく自ら作り上げた幻想を通して生々しく描き出す、それは絵画などにおけるシュールレアリズムに近いものなのかもしれない。物言えぬ中で、あるいは既存の表現方法では表現しきれないと感じたときにその技術は効果を発揮する。

 ファスナーで胸元裂いてぐらぐらとわたしのなかの夕闇を出す  山崎聡子『青い舌』
 死ぬことを奪われたままのひとのなか無限に殖えやまぬ赤蜻蛉  大森静佳『ヘクタール』


 不思議なリアリティは、美しく、恐ろしい。

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