新進特集 「わたしの郷土・わたしの街」 作品&エッセイ④
伊藤すみこ
マチエール所属。原稿を書くにあたり鈴鹿市立図書館を初利用しま
した。信綱に関する書籍が多く、勉強になりました。図書館のそば
のラフターズカフェというお店のドーナツが美味しいので、鈴鹿に
お越しの際はぜひ
青いスバル
花見する気分になれず買い置きのエンゼルパイを寝ながら齧る
空想の孫の話をする父を諌める人がいないリビング
輪郭の薄れた母は水飛沫ひとつ立てずにグラスを濯ぐ
プロ野球選手名鑑ぺらぺらと捲れば男の顔ばかりある
父と同じ名の二塁手はエラーした後にグラブをぼかぼか殴る
ライト前ヒットを打った夏の日を十五年後もまだ覚えてる
シャコタンの青いスバルに礼をするエンジン音がしなくなるまで
監督のスバルほんまにださかった大人になるまで気付かんかった
弁える女にならないマイナンバーカードももちろん作っていない
桜散りいささか心軽くなるどっぷりと下を向いて歩ける
たった十年、されど十年
生まれも育ちも現在の居住地も三重県四日市市のわたしにとって、郷土といえばかれこれ二十九年間、ずっと住んでいる三重県しかない。今回の特集を受け、真っ先に思い浮かんだわたしの郷土の歌人は三重県鈴鹿市石薬師町出身の佐佐木信綱だ。
結社『心の花』の創設者であり、歌人・国学者として有名な佐佐木信綱のことをわたしは子どもの頃から名前だけは知っていた。というのも、自宅から車で三十分ほどのショッピングモールに出かける際に必ず「佐佐木信綱記念館」と書かれた案内表示を見ていたからだ。誰だろう、と子どもながらに疑問を抱き、両親に佐佐木信綱のことを尋ねても、何者なのか分かっていなかった。わたしも深くは尋ねなかったし、試しに記念館に連れて行ってとねだることもなかった。半年ほど前、国道一号線で信号待ちをしている時に何気なく記念館の案内を読み、これってあの! と強く驚いた。漠然と気になっていたあの記念館が大人になった自分に関わってくることになるとは。これも何かの縁と思い、この原稿を書くにあたり、佐佐木信綱記念館をはじめて訪れた。
国道一号線の石薬師町交差点を西に入ると、旧東海道沿いに佐佐木信綱記念館はあった。記念館には佐佐木家の家系図や信綱に関わる年表、直筆の手紙などが展示されている。意外だったのは、信綱は明治五年に鈴鹿市に生まれたものの、五歳で同県内の松阪市に転居し、さらには十歳で東京に転居していたことだ。三重で育ったのはたったの十年だけだった。
四日市(よかいち)の時雨蛤(しぐれ)、日永の長餅の家土産(いへづと)まつと父を待ちにきし
歌集『山と水と』(昭和二十六年)の「病牀偶吟」に収録された一首。昭和十八年の晩春に体調を崩した際に詠んだ歌で編まれた一連で、この歌の直前には「幼時を追懐するに心も幼くなりぬ」との詞書きがあった。日永というのは四日市の地名だ。出張に行った父の帰りはもちろんだけど、父が買ってくる手土産が楽しみだという気持ちは今の子どもにもきっと通ずるだろう。ちなみに長餅は現在も四日市の名物であり、何よりわたしの好物だ。詠まれていてなんだか嬉しい。
夕されば近江境の山みつつ桐畑の隅によく泣きゐしか
旅行詠を中心に編まれた歌集『鶯』(昭和六年)の「随処雑詠」に収録された一首。この歌の前には「石薬師」と詞書きがある。三重県と滋賀県の県境の山々は鈴鹿山脈で、石薬師はその裾野に位置し、西を向くと自然と滋賀との県境の山が目に入る。夕方にふと心細い気持ちに襲われる幼少期の信綱がありありと目に浮かぶ。信綱は幼少期から、歌人・国学者である父、弘綱による英才教育を受けており、四歳で万葉集、古今集、山家集の名歌を暗誦したという。
そして、五歳の年の十二月に初めて短歌を詠んでいる。父から歌人としての素養を学んだ場所、歌人としてのルーツになっているのが石薬師なのだ。
ふるさとのひびきやさしき伊勢言葉いたはりかこむ老いたる吾を
『山と水と』の「鈴鹿行」という一連に収録された一首。『山と水と』は信綱の手で編集された最後の歌集だ。伊勢言葉は文節の切れ目に「な」が入ったり、動詞の打ち消しに「やん」を使う。発音は関西弁とよく似ている。もともと柔らかい響きの方言ではあるが、故郷の言葉だから余計にやさしい音に感じたのだろうか。
東京で活躍する傍らで、父の記念碑がある浄福寺(石薬師)での碑前祭では毎年短歌を献詠し、地元住民のために石薬師文庫を建てるなど、信綱は亡くなるまで出身地である石薬師に深く関わっていた。九十一年にもわたる生涯の中で、たった十年だけの三重での生活。それでも、郷土である三重を大切にしたのは歌人としての基礎が培われた場所だからだろう。五歳までの記憶などわたしにはほとんどないが、幼い頃から短歌に触れ続けてきた信綱にとって、鈴鹿での記憶は歌人として生きるうえでの下地になっていたのではないか。信綱が生涯詠み続けてきた三重は、住み続けている身からすると特に変わり映えのする場所ではないが、たまにはわたしも自分の見たままに素直に短歌にしてみようと思う。
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