新進特集 「わたしの郷土・わたしの街」 作品&エッセイ⑥
小原和
青森県十和田市出身。大学時代の六年間は北海道当別町に住み、卒業後は地元に戻るも結婚して秋田県能代市、青森県弘前市、五所川原市、八戸市と引っ越し続き。お赤飯が甘くて雪の降る地域でのみ生息出来ます。
檸檬の木
愛猫の温き夢より目覚めれば腹を枕に子ら二人寝る
一口でごちそうさまと言われたパンという名のパンを朝餉に食べる
出かけ際に休みとったと夫は言う半分信じてお握り渡す
意外とわたしは泣かないのだよハンカチに縫われし檸檬の木の枝そよぐ
生まれてからずっとずーっと君だったスマホの中の産声を聞く
入園式へ出掛ける朝の玄関で制服姿の子は四股を踏む
新しき制服の袖吸いながらトトト、と走りまた立ち止まる吾子
入園式終えて少女は妹にイヌノフグリの花を摘みおり
子の背中を押さず見送るだけの手でおかずを順に詰めてゆく朝
頑張ったようなそうでも無いような膨らみ始める桜の蕾
和田山蘭という歌人
大相撲三月場所、青森県五所川原市出身の尊富士が百十年ぶりに新入幕力士の幕内優勝を成し遂げた。ちょうど百十年前、大正三年に第一歌集を刊行した同じ五所川原市(旧北津軽郡松島村)出身の和田山蘭という歌人がいる。今回はこの歌人に注目してみようと思う。
和田山蘭は明治十五年四月六日生まれ。明治三十九年、同郷の加藤東籬と共に短歌結社「蘭菊会」を結成。のちに若山牧水に師事して「創作」に参加。その後上京して創作活動に励んだとされている。
ひとり抱く火鉢の上の燗びんの酒ややにわけばちさき泡たつ
はり替へしふすまの紋樣(かた)の氣に入りていつまでもいつまでも起きてをりけり
あぶりたるしろききりもち手にはたき白湯(さゆ)にひたしてわが食ぶるよさ
春淺き津輕の里の家々は垂氷(たるひ)とけつつかけの鳴くらむ
にごる世ににごることなく花咲けりあすはけうらに我も生くべき
『きさらぎ』より五首引いた。一首目、どうやら山蘭は酒飲みだったらしくお酒の歌が多く残っている。二首目、いつまでも起きている姿が純粋な少年のようだ。三首目、動作がとてもリアルで切り餅を持つ手の手触りが感じられる。四首目、早春のふるさとの景色と鶏の鳴き声が穏やかで気持ちが良い歌。五首目、自分自身も自然の一部であるように感じる歌。
死ぬることああなによりも完(まつ)たけれ、五月なかばを郭公(くわくこう)が啼く
きし〳〵ときしむかた雪わらぐつにわたればはてもなき月夜かな
つばめ來よ、いのちさびしみ泣く人のひとみのなかにいま一度見む
『落日』より三首。特に一首目三首目、自然の中に命や人生を見つめる歌があり独特の死生観が感じられる。
『酒壷』の中で若山牧水が山蘭について、
奥州人の常として身體は大きく、 肌は極めてきめこまかくて色白く、しかも胸にも脛にも熊の様に漆黒な荒い毛が密生して居る。そして頭髪は夙くから禿げて居る。斯うしたことを此處に書き出したのは、斯うした風貌の著者が、その胸底にどんなに子供々々しい心を藏めて居るか、濁りのないおもひを抱いて居るか、 なんとそれが不似合で、而してまたこれ位ゐよく似合つてゐる事はないといふことを語らうがためである。まことにこの著者は大きな〱赤ん坊である。手におへない大きな赤ん坊である。
著者はよく風とか日光とか魚鳥草木などを人間化して詠んで居る。自分の仲間として詠んで居る。此處に彼の自然人としての面目が躍如としてゐるのを思ふ。自然人の歌、それはこの著者の歌に最もよく適合する言葉であるかも知れない。
一般の歌壇といふ様なものゝ上に於て著者は甚しく不遇の位置に在る。彼が自己を固持して他に許さないからである。彼自身、それはよく知つてゐる筈である。
と、序文(一部抜粋)を寄せている。歌を読んでいると赤ん坊のようであるという表現が分かるような気がしてくる。大きい身体に無垢な心を持ち自分の意思を貫いていた山蘭の歌は今読んでも面白く、心に響くものがあると思う。
和田山蘭と加藤東籬の二人が結成した蘭菊会、その回覧雑誌の第一号の扉には、「蒼茫として大なるかな詩の野―ねがはくは吾等をしておもふまゝ、歌はしめよ叫ばしめよ」と記されている。青森県に生まれ短歌と出会い、短歌史に名前を残した人もそうではない多くの人も皆、それぞれの時代を生きながらその心には「思うまま歌わしめよ叫ばしめよ」という思いがあったのではないかと思う。都会のような洗練さは全く無いが、雪に耐え無口ながら春を喜ぶ人達がいるこの土着的な風土は歌の影にも匂いにもなるだろう。今も昔も少々じょっぱり(頑固者)が多い気がするがそれは青森県に生まれた者の誇りと言う事にして、この土地に生まれ育った事を味方に付けながら歌を詠んでいけたらと思う。胸の内に歌わしめよ、叫ばしめよと強く思いながら。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー