近代短歌展望(「まひる野」2022年10月号特集)「名古屋の晶子と呼ばれた少女」(後藤由紀恵)
名古屋の晶子と呼ばれた少女―原田琴子について
後藤由紀恵
明治の終わりに「名古屋の晶子」と呼ばれた少女がいた。名を原田琴子という。一昨年、地元名古屋で愛知県の女性歌人を辿る企画展に取り上げられたが、それでも今日、彼女の名前を聞くことはおそらく皆無であろう。今回は明治の終わりから大正にかけて活躍し、やがて埋もれてしまった歌人、原田琴子の歌を読んでみたい。なお、琴子についての先行研究は少なく、古くは名古屋での木全早苗の調査を三田聰子が引き継ぎ、調まどかによる研究冊子と近年では高橋美織、遠藤郁子らの論文が挙げられる。
原田琴子(戸籍名は古と)は、一八八九年(明治二十二)愛知県名古屋市常磐町(現在の中区大須)に生まれ、一九二五年(大正一四)山梨県南巨摩郡で死去。三十六年の生涯であった。琴子が生まれた頃の大須には旭郭という大きな遊郭があり、生家はここで「金水楼」という妓楼を営んでいた。父は士族であったが明治維新で職を失い、妓楼を始めたようである。家は裕福で、琴子は兄と弟妹に挟まれたお嬢様であった。おそらく当時の富裕層では一般的であっただろう茶道、華道、琴、和歌などを嗜み、同時に名古屋市立第一高等女学校に進学し、明治の新しい女子教育を受けている。両親は教育を重視していたようで、兄と弟も早稲田大学を卒業した。しかし不幸なことに琴子は在学中に角膜炎を患い、十代の後半から二十代前半にかけて目の不自由な生活を強いられることになる。琴子の歌が初めて活字になったのは十六歳、「女子文壇」で佐佐木信綱の選に入る。その後、選歌欄は与謝野晶子が担当するようになり、琴子は晶子の選を受けやがて一九〇八年(明治四十一)十九歳で新詩社に入社し、同年の第一次「明星」終刊まで精力的に出詠する。
いみじくも愛しと思ひぬ湯を出でし二十のすがた貴(あて)ににほえば
おのづから君を戀ふべきおきてもて定められたり我は守らむ
陶器(すえもの)のくだけはつぐにたやすかりくだけし心何もてつがむ
一首目は晶子の「その子二十歳櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」を辿るような歌である。晶子の歌にある客観性は見当たらないが、若さゆえの大胆さと自信に満ちている。二首目は観念的ではあるが、「君」への一途さと生真面目さからの危うさがあり、三首目は物と心情の対比が内省的に詠まれている。「明星」では鉄幹晶子に優遇され、岡本かの子、原阿佐緒とともに新詩社後期の三閨秀と称されたほどであった。「明星」終刊後は、「女子文壇」「スバル」といった全国誌に投稿する一方で名古屋の雑誌にも出詠し、兄や弟と「轟会」という同好会を作り学生の指導などをしていた。弟の鎗三は早稲田で若山牧水と同級であり、牧水が名古屋で創刊された「八少女」の同人となっていることからも琴子自身も牧水と交流があったのかもしれない。琴子の各雑誌への出詠の様子を見ると、両親は子ども達の文学活動に反対する空気はなかったと想像される。また、原田家は一九〇九年(明治四十二)に妓楼を畳み転居している。そして一九一一年(明治四十四)二十二歳の琴子は、青鞜社に入社し「青鞜」に出詠をはじめる。中山恵子によれば、晶子が「名古屋に歌の巧い人がいる」と琴子を紹介したことから投稿を依頼することになったそうだ。晶子からの紹介とは、琴子にとってどれほど晴れがましく名誉なことであっただろう。また、創刊当時の名古屋の青鞜社員は琴子を含め六名(一名は補助団員)おり、全国で東京の三十三名に次ぐ多さであった。これは文学の土壌としての名古屋を考える時、興味深い事実である。青鞜社は「女流文学の発達を計り各自天賦の特性を発揮せしめ、他日女流の天才を産まむ事を目的とす」る女性による女性のための文芸集団であった。少なくとも発足当時は社会的な自由を持ち得なかった女性達が、文芸によって己を肯定し解放し自由を得る場を想定していたのだろう。しかし翌年にイプセンの『人形の家』を取り上げた頃より、文芸から婦人問題へと徐々に舵を切り替えてゆくこととなる。琴子自身も「青鞜」への初出詠と前後して地元新聞「新愛知」へ「婦人の覚醒上下」「ノートより」として女性論を執筆しているが、「青鞜」に論文を発表することは無かった。
そのような中、一九一三年(大正二)四月、二十四歳で第一歌集『ふるへる花』を東京の岡村書店より出版する。(今回、現物を手にすることが叶わず国立国会図書館のデジタル資料を参照。)全三八八首を「紅玉」「ふるへる花」「雨のしづく」の三章に分けている。自序に「私はこの幾年を詩歌の酒に酔うて心をなぐさめた。(略)幾年を泣きぬれた瞳も昨年頃から美しく輝くやうになつた。(略)私はこれから新しき生涯に入るのである。この復活に当つて今迄の歌を纏めて記念としたいと思ふ」とあり、前年に受けた角膜炎の手術が成功し視力を取り戻した琴子の歌にかける情熱と喜びに満ちている。
二十三はじめて眼こそ開きたれ君に驚くわれに驚く
たくみなる絃の音よりも君が来るたそがれ時のあまき靴音
わがごとく君を思へる人ひとりよそにあらぬも物足らぬかな
いたましく残る夜明けの灯に似たり君がかたへにおかれたるわれ
なつかしみとり出でたるは戀の文いないなわれを弔へる文
毒の蛇身をかむごとしはげしかるわが少年の晝のくちづけ
ダアリアはふるへてありぬ戀人を殺さんといふ夢のかたはら
巻頭歌である一首目のように『ふるへる花』の前半は多く恋の歌で占められている。文学に理解のある裕福な家庭に育ち、晶子に心酔していた琴子にとって身を削るような恋の情熱は憧れであり、いつか実現させたい夢だったのではないだろうか。歌の多くは現実の恋というより「恋に恋する少女」を琴子自身が演出しているような印象ではあるが、二首目などは妓楼から聞こえる琴の音に重なる靴音などに現実感があり、普段の暮らしが見えるようである。もしかしたら目が不自由な点も現実を離れ恋の世界に没入する一因であったのかもしれない。七首目は『ふるへる花』より三ヵ月前に刊行された北原白秋『桐の花』の「君と見て一期の別れする時もダリアは紅しダリアは紅し」を思い出す。
妹が衣ぬふ時に文を書くわれや少しくあやまてるらん
この少女つばさを持てば土にのみ居ることのあきたらぬかな
歌もなきかたは娘とわがならばわが父母よかなしからずや
妹等花と遊べどわれひとり狂へる風を追はんとぞする
羽をもつ世の少女より地の上を這へるわれこそ安らかに居れ
世のいまだととのはぬ間に生れ来て少女は狭き家におかるる
あさましき掟をおかぬ心地よき詩の國にのみはばからず生く
一方で、歌集にはこのような歌もある。毎月の「青鞜」に目を通していたであろう琴子は恋に恋することはあっても社会から目を背けるようなことはなかったと思う。ここには良妻賢母となるだろう妹をはじめとする少女たちとは一線を画す存在である自分を持て余し、しかし歌がなければただの「かたは娘」だと卑下する琴子の姿がある。おそらく女学校卒業後も文筆活動を続ける琴子の存在は近所でも目立っていただろう。六首目の「狭き家」には、社会と自らの意識とのズレが集約されている。女性が自分の意思で自由に生きることの難しさを十分に実感していたのだと思う。この歌は現代に置き換えてなお通用するのではないだろうか。それだけに七首目の決意のような一首が気を張りすぎているようでもの悲しい。
『ふるへる花』は好評をもって迎えられ、一九一五年(大正四)二十六歳で「新潮」に歌が掲載、創刊された「女の世界」で選者になるなど活躍の場を広げると同時に、友人の三ヶ島葭子夫婦の紹介で東洋経済新報社記者の遠藤孝三と恋愛結婚し上京する。青鞜社の女性たちが新聞などのメディアに攻撃されたように、琴子も歌集刊行前後から名古屋の新聞で「問題の女」などとして揶揄されていた。その中での恋愛と結婚、上京は胸躍る出来事であったと想像する。そしてこの辺りが琴子の歌人としての絶頂期でもあった。その後、二十八歳で死産を経て、同年に遠藤琴子として第二歌集『愛と自然』を出版するが、現物はいまだ見つかっていない。翌年、長女を出産し、夫の実家のある山梨県南巨摩郡に転居、先妻の子らと農家の暮らしがはじまり二子を出産する。名古屋や東京での暮らしに比べ、慣れない農家での生活はどれほど大変だっただろう。
うち黙し歌はぬ女かなしめと自らをもて壁に押しやる
椅子により子等にかこまれお話の女王のごとし里に住めども
おごそかに山の見ゆるよ千年もこの山をわれ出でがたきごと
一九二二年(大正十一)~二四年(大正十三)にかけて第二次「明星」に出詠したのが琴子の最後の作品とされている。ここには『ふるへる花』の恋に恋する少女はもういない。閉塞的なムラで、それでも歌を捨てられない一人の女性がいるばかりである。翌年、琴子は三十六歳の若さで出産のため亡くなった。かつて「うつくしき涙はれたるわが胸に虹のごと燃ゆ新しき歌」と詠んだ少女がもしも長く生きていたら、困難な状況のなかでどのような歌を詠んだのだろうか。なお、一九六六年(昭和四十一)刊行の『明治文学全集74』の「スバル歌人集」に三ヶ島葭子、岡本かの子らとともに琴子の五首が収録されている。
〈参考文献〉
高橋美織「「青鞜」の歌人―原田琴子(一)」「昭和女子大学女性文化研究所紀要第37号」二〇一〇・三 「「青鞜の歌人―原田琴子(二)」「昭和女子大学院日本文学紀要第21集」二〇一〇・三
遠藤郁子「原田琴子短歌論―つばさを持つ〈少女〉」『大正女性文学論』二〇一〇・十二 翰林書房
中山恵子「青鞜社の名古屋社員」名古屋女性史研究会『母の時代』一九六九・五 風媒社
木全早苗「原田琴子をめぐる人々」「名古屋近代文学史研究第4号」一九七一・七「原田琴子ふたたび」「同第82号」一九九八・五「『ふるへる花』―原田琴子の第一歌集」「同第122号」一九九七・十二
三田聰子「名古屋の青鞜の女たち(一)~(十一)」(番号重複有り。全十三回)「名古屋近代文学史研究」一九九九・九~二〇〇三・三
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