俵万智『アボカドの種』評・2024年9月号書評特集⑥

豊かな比喩の世界 
   米倉 歩

 俵万智の第七歌集。一読して感じたのは歌意が明瞭で具体的な映像を喚起される歌が多いとうことだ。こうしたある種の「分かりやすさ」は、俵の駆使する比喩の力に負うところが大きい。

  ノンフィクションカメラの朝のパトロール現行犯で今撮られてる
  チーム解散 千本ノックの質問とカメラは次の獲物に向かう

 俵が二年前にNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組の取材を四カ月にわたって受けた時の歌である。一首目、おそらく寝起き間もない自分をカメラに撮られるバツの悪さを「パトロール」「現行犯」という警察と犯罪者の喩で表現する。二首目は取材の終わりを野球チームの解散に見立て、「千本ノック」に自身の内面を鍛えられた日々への名残惜しさを滲ませつつ、「獲物」という喩からは取材班と自らの関係性への冷めた認識がうかがえる。俵の体験した特殊な状況とその時の心情が比喩を介することで容易に想像、実感される仕掛けになっているのだ。

 二年前に還暦を迎えた作者。本歌集では両親の介護、自身の病気といったこの年代の多くが直面する現実が、どこか達観したようなユーモアを交えて歌われている。

 母の言う「じゅうぶん生きた、死にたい」はデッドボールで打ち返せない
 ランドセル背負えるごとしたっぷりの酸素とともに歩みゆく父

 反論も励ますこともできない苦しい胸の内を「デッドボール」の比喩が端的に表す一首目。酸素ボンベを子供が背負う「ランドセル」に喩えた二首目からは父を見守る作者の切なさが伝わってくる。

 息をしただけで上手と褒められる生まれたばかりの赤子のように
 放射線の塩かけてやる胃の中のリンパ腫という名のナメクジに

 こちらは病院での検査と治療の歌。「生まれたばかりの赤子のように」に自虐と自己憐憫が滲む一首目、「ナメクジ」と「塩」の喩で病状や治療の様子を映像化してみせる二首目、いずれも平易でありながら物事の核心を捉えた比喩が光る。最後に時事詠から引く。

 巨大なるゼロを抱えてこの夏を白紙のままの答案用紙
 サイタ、サイタ、過去最多なる花びらのメダルの数と感染者数

 一首目は「新国立競技場」の詞書がある。コロナ禍での東京オリンピックは開催間際まで観客を入れるかどうかで揺れた。競技場を「巨大なるゼロ」に見立て、答えの出せない状況を「白紙のままの答案用紙」という諷喩で表現する。二首目は日本のメダル数とコロナ感染者数が共に過去最多を更新した状況を皮肉を込めて歌う。戦前の国語の教科書「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」のフレーズを借りて「咲いた」を「最多」に転換し、かつ中程の「花びらの」が「咲いた」の縁語となり、さらにその形状の類似からメダルの縁語でもあるような働きもしていて、重層的な一首となっている。時事詠は多くないが、比喩を用いた歌には高いオリジナリティがある。

 分かりやすくはあるが陳腐ではなく、新鮮ではあるが難解ではない。俵万智の確かな言葉の技法を実感させられる一冊である。

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