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時評2024年3月号

あなたの言葉は無力か


 
 一月一日に発災した能登半島地震。一月二十日時点で死者は二三二人、今なお一万人を超える人たちが避難している。今回は二〇一一年の東日本大震災に際して歌人が何を綴り、語ったかを、今一度振り返ってみる。


全てが壊れた。震災前の価値観・思考も廃墟となった。それは被災地の人ばかりではあるまい。だが、私たちは言葉まで廃墟にしてはいけないのだ。もし、言葉の廃墟が目の前にあるなら、一人の点灯夫として、私たちはその廃墟を灯しつづけなければなるまい。
――高木佳子(「歌壇」二〇一一・六/緊急特集「震災のうた――被災地からの発信」)


人ごとの論評、飾り立てた言葉、奇をてらう歌。ああ、本当に遠い。あまりにも隔たってしまいました。寄り添う心を欠いた言葉は、無力さを越えて呪いになるのだと。その隔たりをどうしていこうか、あぐねています。自省もこめて。
――梶原さい子(『99日目』)


テレビなどでニュースを見ている短歌作者からは、未曾有の災害とか、津波が龍のごとく押し寄せたとか、紋切り型の表現が多かったですね。一番嫌だったのは、地獄絵図のようだという表現。
――栗木京子(「短歌研究」二〇一一・十二/二〇一一年歌壇展望座談会)


われわれは鮮明な映像を見たが、逆に現場では見られない。それと表現がどうつながるのでしょうか。だから、テレビを見ていて歌を作ってはいけないと簡単に言えない。難しい問題ですよね。「見ている」とは一体何なのか。
――小高賢(「短歌」二〇一二・三/座談会「3・11以後、歌人は何を考えてきたか・世代Ⅰ」)


〔自省のない原発敵視の歌は〕表現としてできてこない。それが難しい。憎しみだけを叫んでも、それは往年のプロレタリア短歌と同じ次元です。(括弧内筆者)
――来嶋靖生(「短歌」二〇一二・三/座談会「3・11以後、歌人は何を考えてきたか・世代Ⅰ」)


忘れっぽい私たちは、いつか忘れたころにまた悲しい目にあうかもしれない。それでも、ここで起きるうれしいこともかなしいことも全部見ていたいと思うから、私はこれからも何度でも三月十一日をここで迎えるだろう。迎えたいと、願う。
――小林真代(『366日目』)


 今、わたしは大森静佳『ヘクタール』や染野太朗『初恋』、川野里子『ウォーターリリー』のことを考えている。これらの歌集が示した〈遠さ〉と向き合う胆力や粘り強さは、震災が炙り出した課題への一つのヒントであるような気がする。同時に、わたしがこれまで詠んできた歌は自分を宣伝するためのものでしかなかったとも思い、恥ずかしい。
「言葉は無力か」という問いはつまり「あなたの言葉(短歌)は無力か」ということなのだろう。歌人なら答えは「無力ではない」以外にないとわたしは思う。現実に何度打ちのめされようとも、詠み続けるしかない。
(北山あさひ)