中井スピカ『ネクタリン』評・2024年9月号書評特集⑤
フラット、リズミカル、微熱、あと
久納美輝
わたしたちが視るとき、人と同じように視る部分と、違った景色を視る部分があり、その二重写しの世界を生きている。現実をよりグロテスクに書くなんて品がない。本書は生々しい現実に身を置きながら、当人はどこか異国のリゾート地を見ているような、奇妙な視点が魅力的だ。
フォルダへとリスト格納し終わってバスク地方へ明日行きたい
アレカヤシと名前を知れば受付はいきなり南国めいて明るむ
目が凝ってしまうような細かいデスクワークと、フランスとスペインにまたがる観光地であるバスク地方を対比させている。「フォルダ」「リスト」「パスク」とカタカナを連続させながら、それほど違和感なく発想を飛ばしているのが巧みだ。おもしろい。
観薬植物が「受付」に置いてあったのだろう。それをなにかのきっかけで「アレカヤシ」だと知る、名前を知ることで「南国めいて」くる。憂鬱な仕事に少しだけ光が差す。ネガティブに引き摺られて暗い歌を詠むのもひとつのテであるが、シリアスな場面であえてカタカナや明るい言葉を多用することによって、フラットに詠みあげている。こうした技功によって感情を用いつつも、感情に振り回されない軸を感じる。
先輩もOutlookも設定をやり直されて対策が済む
酸素ボンベ引いて歩くのが嫌なんて理由で命を縮めていく気?
あえて深刻に語らない方が怖い。「先輩」の価値は、「Outlook」と等価である。設定を「やり直される」とはどういうことだろう。擬人化という言葉があるが逆に機械のように人間を表現すると、人間が当たり前のようにリスペクトされない社会が透けてみえる。
家族を詠むのは難しい。引用歌は父を詠んだ歌だが、もし、生真面目に詠んでしまったら、父を責める歌か、矜持を持って死を迎える父のウソくさいダンディズムが漂いはしないか。
ここで表現されるべきは呆れであり、ズッコケてみせることこそ求められていることなのだ。口語をリズミカルに用いることで作者と読者にとってちょうどいい重さに落ち着いている。
無名であることの強さよ哀しさよふくらはぎ僅か熱を持ちおり
やり直せないって誰が決めたのさJapanese以外がいつも言うけど
微熱を含んだほんのり背中を押される歌も多い。何者かでなければ価値がないとおもわれがちな現代において、「無名であること」を選択できるのは、自分の感覚を信じて生きるという強さであり、諦念を受け入れる哀しさでもある。しかし、恥ではない。
軽さのなかに微熱がある。ここまでは一般的な読み方だろう。
ぶれながら騒ぎすぎゆくヒマワリを動体視力の限界まで見る
霧雨が胸を犯して降る午後にいなければいい人を数える
しかし、個人的には、ざわめくヒマワリをひとつの景にせしめんとジッと見開かれた眼や、不意に胸に去来した後ろ暗い感情から感じられる作者の強い自我にこそ真価を見出したい。
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