大松達知『ばんじろう』評・2024年9月号書評特集⑦
言葉と自分と技術と
小瀬川 喜井
五九七首が収められた第六歌集。四十六歳から五十一歳までの時が編まれている。まずは「あとがき」を読む。「こういう時代であるからこそなおさら、言葉を確実に手渡す作品が必要なのだと思います。作者が作品の中心にしっかりと存在し、言葉の引力に振り回されていない作品。そして作者と読者の間に一本の確かな道を通す作品です。」とある。「言葉の引力に振り回されない作品」「一本の確かな道を通す作品」という部分がやはり強く印象に残り、その点を意識しページをめくった。
黒豆のひとつひとつに照りはありひとつひとつが死を見つめおり
この一首からこの歌集は始まる。この歌集では作者が「子(息子)」「父親」「教師」のいずれかの主語を背負う歌が多く、特に子として父の死を詠むものが多い。
踏み切りの向こうに波の音はせり<死は悲劇だが個人的>なり
保湿剤お前にやると差し出されわれはいまでも守られる側
カーテンが原稿用紙に見えるとぞわが母だけが聞き取りにけり
なにゆえに母は言い切ったのだろう父は白木の棺が好きだと
小学二年で習う漢字表 四画に父、六画に考
一首目、踏み切りが示すこちら側とあちら側。波の音。場面設定もさることながら、括弧の四句目五句目が特に心に刺さる。同じ五十代として達観する気分もわかるし、死を客観的に分析しているようでいて実際には受け止めなければならない現状にも共感できる。また、重い事実を言葉に頼らず振り回されず冷静に扱い、その視点がより作者の心象を際立たせる。三首目以降は、温かさ、優しさや寂しさが溢れていて引いた。その思い出の瞬間や様々な感情は、あとがきにもあるように、歌の中心に落ちないように吊るされていて、もしくは中心で作者が落とさないように持っていて、こちらが支えることもなく無防備に見上げるだけでよかった。
学校を過去と空耳しておりぬ 従う人は従わせたがる
日本語しか聞こえない部屋に集まって終わった数字ばかり見ている
はい、のなかのにわずかにゆらぐひびきありごめんなさいを聞いたことにする
<正しいもの>みずから作り問うておりひとつ選びなさいひとつだけ
遠足のバスの車内の自由席そんな自由をよろこぶ君ら
肩を貸して歩く三分 教室で嗅ぐことのない十五の身体
主語「教師」として立つ歌をここに挙げる。イロニーにも気を取られるが、全てに核となる言葉の光りがある。そして成熟した作者の魂にも惹かれた。字数の関係で言葉の光についてのみ触れるが、学校を過去、終わった数字など、その言葉の光は閃光ではなく銀色のような感じだ。歌を詠む技術と実直さ、日常がタッグを組んだら、それはもう無敵ではないか。不覚にも、木戸修を思い出した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー