【短編小説】カルーアミルクをください
「カルーアミルクをください」
少し気だるげな様子のその人は言った。
続けてはにかんだ顔で、
「店に入ってくるなり飲むお酒じゃないですよね。」
とも言った。
僕がその様子を見守っていると彼女は続ける。
「どうしても喉が渇いて、カルーアミルクが飲みたくなったんです。」
そして言い訳をするかのように間髪を入れずに話し続ける。
「私心が強くないんです。」
「それなのに、心が強い人が働くような会社で働いていて。それが幸せだと思っていました。いえ、今もそう思っているんです。」
それはほぼ独り言に近かった。
モノローグとでも呼んだ方がその人にはしっくりくるだろうか。
「だからこうして自分をリセットしにここまできている?」
「そうです。」
彼女はやっとぎこちない笑顔から解放された。
「私、逃げたいんです。ずっと。」
何かから逃げたくて、そんな気持ちで生きてるんです。
「逃げたい」
それは「居場所を持ちたくない」そういう願望に近いのかもしれない。
まだ小さかった頃、「そっけない態度をする転校生は実はどこかに寂しさを隠している」と言う感情を学んだ。先生はこれがセオリーだから、そうやって背景を探して心情を導くのだよ、それをテストで書いてごらん、きっと満点の回答になるだろう。と教えてくれた。
転校ばかりの登場人物は、仲良くなると別れることが辛いから優しくしてくれる主人公にそっけない態度を取る。主人公は途中で愛想を尽くすが、最終的に転校生の行為は寂しさの裏返しの結果だと気づく。そして二人は素直な感情を出し合い、別れの辛さを乗り越え、成長するのだ。
物語の主人公はだいたい小学生で、中学生になるのを前に、きちんと成長する。
僕は小学生の時それが自然なことだと思っていた。自分も自然的にそうなるのだと思っていた。
でも、とっくに小学校は卒業しているはずなのに僕にはまだそれができていない。まだ素直になれない転校生のままなのだ。何かを失うのが怖い、だから居場所を作らない、だから、いつも、逃げたい。
気づけば僕のハイボールの氷は溶けていた。そして彼女はもういなかった。彼女のいた席には傘が置かれていた。もしかすると忘れ物だろうか。
僕は傘を手に店を出る。いつもなら、こんなことはしない。忘れ物を手に人を追いかけたりはしない。だが、何か人のためにないかをしたくなった。そうでなければ僕はずっと素直になれない転校生のままである気がした。彼女はだいぶ先に出て行ってしまったのだろうか。付近をしばらく歩いたが、彼女は見当たらなかった。
ふと我に帰る。雨の音はしているのに地面が濡れている様子はない。そういえばどうしてこのあたりには誰一人として人がいないのか。
彼は何か思いついたように後ろを振り返る。
振り返るとそこには穏やかな海が広がっているだけだった。
そして放心状態の彼の右手にはしっかりと傘が握られていた。
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