ほんとの自分をわかってほしい 〜生きてく中で感じたこと〜#16
鏡の法則 真花です。日々、フォロワーさんが増えていて感謝してます。
今日は、改めまして私のことを 書いてみます。プロフィールにも書いてますが....
関西在住の主婦です。2021年大好きだった仕事を辞めました。
最後の方は 大好き!って言えない...早くここから抜け出したい!って毎分毎秒思ってました。
*幼少の頃の記憶*
関東の街で 一卵性双生児として生まれました。
生まれてからの記憶 私の中に関東で暮らした記憶は残っていません。
当時、両親は、某有名電気製品会社の社宅に住んでいました。
三種の神器と言われたテレビ、洗濯機、冷蔵庫が一般家庭に普及し
少し経った頃 私たち双子は 生まれました。
27歳で働き盛りだった父は、時代の後押しもあってトントン拍子に出世していったそうです。
そんな安泰の生活も 私が3歳の頃に終わりを迎えます。
私たち、双子が 田舎の小川で手を繋いで笑っている写真。←写真で知る事実、記憶にはないです。
幼児体型の三歳児。パンツ一丁で微笑んでる。昭和だな。
仕事を辞めた父は家族を連れて 父の実家に移り住み、数ヶ月居候したようです。その頃は、父の両親、兄夫婦、甥っ子姪っ子も住んでいたようで....
結婚してサラリーマンの妻になって 双子の子育てもあるのにたった数年で農家の居候になるなんて 母の気持ちを考えると それを乗り越えた母は尊敬しかないです。
実際に 母の実家からは もう子供たちを連れて関東に帰っておいでと
再三 連絡があったそうです。 あの頃、おじいちゃんのいうことを聞いて故郷に帰っていたらどんな人生だったのかなと80歳の母は いいます。
今となっては、懐かしい笑い話なんですよね。その横で うつむく父....
感謝をうまく伝えられないのは昭和育ちだから仕方ないのか?
私の現在残ってる 人生初の記憶は....
5歳の 暑い夏。大阪の団地の公園のベンチに立たされ記念写真を撮ってもらった事。
カメラマンは ハワイで料理人をしていた 母の2人いる弟のひとり。
母の姪っ子2人も この日のために用意した大きな白いハットと花柄ワンピースで我が家から公園に集合。
行き先は、 1970年開催 大阪万博 EXPO'70
私たち一家は 数年前に建てられた 大阪の団地の抽選に当選して引っ越していました。
関東の親戚 数人が 関西を初体験した1970年夏の出来事です。
母の手作りさくらんぼ柄のワンピースを着た双子
この日 初めて見た金髪、青い目の外人さんに 抱き抱えられ記念撮影のツールとなって されるがままの衝撃的な1日を体験したのです。
歩けば、歓声をあげた外人が近づき 抱き上げられて記念撮影。
英語のできない親戚たちは、笑うしかない....
ハワイの弟は パリピなんで 辞めてくれなんて言ってくれないし
母も双子もクタクタで この日の思い出は 後の親戚たちの結婚式や盆正月に笑い話として語られるテッパンになったのです。
*子供時代〜双子の傷~ *
双子のクラス分けは 親の都合次第だと感じました。
うちの場合は 母曰く 小学校入学で いつも一緒だったのに急に クラスが別だったら私たちが 不安だからという理由で 小1は 同じクラスをリクエストしたそうです。
大人になってから 双子の友達に聞くと 意外と 双子はそれぞれ 親の都合で
クラス分けを リクエストしてたみたいです。
同じクラス派 (今では考えられないが、昭和的な個性を無視した理由もある)
『家庭訪問が1回で済むから』 『授業参観が1度で済む』『子供が心配』
『お友達が同じだったら安心』
違うクラス派(担任の心の声としては、どっちでもいい。同じクラスでもいいけど、見分け方教えて!なんて意見もありました)
『男だから クラスが別れても大丈夫でしょ?』『2卵生で男女の双子だし育て方が違うから、違うクラスでも問題ない』『同じクラスで注目されたくない』
双子にとって 相方と一緒に通学するだけで安心感は あるかも。
よく、双子は魂の繋がりが強いように思われていますが....
私の場合は、違ってました。 あの頃は、新しいクラスに双子の相方がいる事で安心したのですが、だんだん誰もが 相方と私を比較するようになり、私という個人を誰も認めてくれない、受け入れてくれないって感情に苦しめられたのです。
ずっとずっと、大人になり家を出るまで つづいたかもしれません。
母親の愛情は 間違ってないと思ってます。
親の都合で クラス分けまで 操作された事。あの時は 2人でいた方が安心だと思い込んでいた事、
双子は同じではない。一人一人の個性を早く認めて 親の都合で ひとまとめにしないで。比べないでって叫びたい。
私は、相方に言ってないけど 比べられて苦しんだ。
82歳の父親の一言
双子だからって同じ服は着せたくなかった。それぞれに合う色が違うから...
寡黙な父で お互い分かり合える時間がやっと来た。
10代の頃は 大嫌いだったけど 深い愛を注いでくれていたのねと感謝した。
*子育て、主婦業で自分を見失う*
2002年、母になり こんなに幸せでいいの? と思ったのも束の間
過酷な日々が到来しました。
私の天使ちゃんは、夜泣きが激しく、寝る間も無く24時間の戦いが....
夫は そんな私を気遣うことは たまにはありましたが
ほんとにたまにです。
ワンオペで 2人の子育てをしました。
夫は悪い人ではない 男は仕事って時代に生きているんです。
人と同じが 安定なんだと 教育をうけているからですね。
この20数年 我を忘れて 家族の世話をしていきました。
これが 幸せだと思っていた私の結婚生活です。
世の中には....特に日本は
社会の単位で個人を見ています。 一人一人に個性を重要してくれる社会、
同じはつまらない、主婦だからこうでなければなんて言わないで。
声を大にして言いたい。
*そして、自分がなくなりました。*
私は
何がしたいの? どう生きたいの? 何がほしい?
何を問いかけても 明確な答えが出てこない。
自分の心の深い部分の声を聞きたい。
そんな人多くないですか? 何をしたいのか? わからない人...
*自分がどう生きるのか 決めるのは自分です*
でもね妻になると夫を優先してしまう
親になると 子供を優先してしまうって当たり前って考えてませんか?
危険ですよ。 先に自分がどうしたいのか聞くプロセスを忘れないでください。
自分を愛することが先で そこから 家族を愛せば 日々が変わります。
妻として、母としてと義務のように家族のケアをしていると 自分を愛することわすれてるかもしれません。義務には 愛がないとは言い過ぎですかね?
自分を愛て、自分の声を聞いてみて 私は
家族のこんな笑顔を見れたらhappyになる。という感情が沸いたとしたらそれは、すべて愛情です。
やっと、自分を愛することに 罪悪感を感じなくなった程度の成長ですが
日々、いろんなワクワク感情が出てきて 自分の変化を感じてます。
仕事を辞めたのも 自分を取り戻す為、自分の時間、自分らしくいることの障害を取り除くためです。
周りの人にも仕事を辞める事に反対する人が多く、揺れましたが、今の自分は本当の自分ではないから 一度仕事を手放すことを決めました。55歳なんで、再就職は無理かもだけど、
自分らしく生きることを後回しにしたくないと
思ったのです。
今後も揺れ動くかもしれませんが、うまくいかない先には うまく行くことが待っていると信じてます。
この先 楽しみです。
今日も最後まで読んでいただき ありがとうございました。