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法の支配、人の支配。

今日はなかなか良いことがあったので、喜んで過ごした1日でした。

そんな中、トップ画にあるように、いつも便利に使わせていただいている『ポケット六法』(有斐閣)も令和6年版になりました。
刑法においては、「懲役」「禁錮」という文言が、「拘禁刑」という文言に変わっていました。ドキドキしますね。刑務所の処遇がどのような対応を見せてくれるのかも、なかなか興味深いところです。

先月の通常業務+αから解放されて、楽になったのは良いのですが、なかなかピリッとしない日々を過ごしてしまっています。頑張らないとですね。

そんな中で、ここ最近特に強く感じていることを徒然と書いてみましたよ。
宜しければ、どうぞお付き合いください。

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甲が乙を殺害したかどで刑事裁判になった。乙の遺族の丙は、加害者である甲に対して極刑を望んだ。この事件を知った世論も、「人を殺害するなんて許せない。甲を極刑に処すべきだ」と声を上げている。

しかし被害者である乙は、既に死亡している。つまり、この事件に関する乙の意思や考えを知る者は世界中に誰一人としていないのだ。世論は「極刑に処すべきだ」と叫んでいたとしても、当の乙はもし言葉を話せたならば「いやいや私はもう許しているので、執行猶予をつけてやってください」と考えているかもしれない。少なくとも、その可能性は排除できない。

このように、被害者が亡くなっており、その意思を知ることが不可能な場合、加害者であり被告人である甲は、一体誰による裁き、非難を受けているのだろうか?

被害者が死亡したケースにおいては、当てはまるその条文の法定刑に死刑が規定されていようがいまいが、極刑を求める世論の声がその他の事件に比べて大きくなるように見える。

この時点で、現実的には、「市民対加害者」という争いの図式になっている。いや実際は、争いという図式を超えて、市民は加害者を一方的に裁く立場を手に入れたと錯覚しているのだ。

裁判官は世論を意識していると思う。時代に即した判断を下すためには、世論がどのように形成されているのかということは十分に意識しているはずである。
しかし、世論に追従した判決を下すことは裁判官の本義ではない。世論を知り、それを意識することと、世論に阿ることとは全く異なる。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。」(憲法76条3項)

世論に阿るような判決を下すなら、それはもはや法治主義ではなく人治主義だ。法の支配ではなく、人の支配になってしまう。それだけは避けなくてはならない。

被害者が死亡したケースにおいて「極刑に処すべきだ」と叫ぶ声が大きくなるのは、正義感からという理由もあるだろうが、実際のところは、当の被害者がこの世にいないため、安心して声を上げられるという(少なくとも潜在的な)意識があるだろう。その論理においては、死亡した被害者の意思や考えは、声を上げる世論にとっては考慮の外にある。そこでは被害者乙の存在は無化されているのだ。笑いも涙もあり、主体的に人生を生きてきた、当該乙の存在は押し流されているのだ。

裁判官の世界には本当に様々なしがらみがある。話に聞いただけでも、憤りを抑えられないようなことも、実際に存在するようだ。

そうであったとしても、裁判官には裁判官としての矜持を持っていてもらいたい。当事者の声をしっかり聞いて、亡くなった被害者の声を最大限、想像してもらいたい。そして、良心と憲法そして法律の下で、適切な判断をしてもらいたい。

裁判所や裁判官、そしてその判決について議論することは重要だ。しかし、長年積み上げてきた司法の原理や原則を根底から破壊してしまうような暴論とは距離を取って、裁判官として鍛えられたその論理の力でもって、世論を納得させてもらいたいものである。




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