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ルネサンス発祥のイタリア紀行と絵画展宮殿や大聖堂、橋…ここそこに中世のたたずまい

 「ルネサンス」という言葉を知ったのは高校生の時の教科書だった。当時は14世紀にイタリアで始まった文芸復興を意味すると理解していた。それから時を経て、新聞社の文化企画の仕事に携わって、芸術が身近になった。その本場であるイタリアを旅したいと思い続けていたが、実現したのは定年直後の2004年4月だった。職を辞してからも美術に関わり各種寄稿をしていて、ルネサンス絵画を日本各地の美術館で鑑賞した。発祥の地となったフィレンツェと、その後に波及したヴェネツィア(ベニス)を中心としたイタリア紀行とともに、日本で開催されたルネサンステーマの美術作品も合わせて取り上げる。なおローマやヴァチカン、その他ミラノやシエナなどのイタリア名所は次回でリポートする。

フィレンツェ、まるで美術館のような街


 旅行社が企画したツアーは「ルネッサンス紀行 イタリア10日間」だった。関西空港からオーストリア航空で約15時間足らずでミラノに着いた。経由地のウィーンで入国手続きを済ませば、あとは国内旅行並み。2001年にベルギー、オランダを旅した時は通貨が統一されていなかったがユーローが定着し、EU統合によりヨーロッパの一体感がより進んでいるのを実感した。
 イタリアの世界遺産登録数は60件で世界トップ(2024年現在)。10日間で主要観光地を駆け足で周遊したが、訪問できた世界遺産は10件に満たない。この連載の11回目にポンペイを取り上げているが、今回はルネサンスに関連の2都市を中心にとどめる。
 フィレンツェの起源は紀元前59年、執政官カエサルによって入植者(退役軍人)への土地貸与が行われ、ローマ植民都市が建設されたことによる。13世紀には毛織物、絹織物、手工業を中心とする製造業と金融の流通によって飛躍的に発展した。15世紀初め富豪のメディチ家が統治し18世紀半ばまで支配した。1865年からイタリア王国の首都となるものの、1871年にローマに移された。第二次世界大戦中、フィレンツェの記念建築物の大部分は、イタリア軍と戦う連合国軍と、イタリア軍の降伏後にイタリア北部を占領下に置いて連合国軍と戦ったドイツ軍による被害をまぬがれた。

フィレンツェの街遠景(2004年)

 第二次世界大戦後のフィレンツェは、世界各国からの観光客を受け入れるイタリアでも有数の観光都市として繁栄している。荘厳で華麗なヴェッキオ宮殿をはじめドゥオーモや教会の尖塔が点在し、いずれもが華麗な彫刻がほどこされ、街全体が美術館といった、たたずまいだ。古い街は独特の茶色の瓦で統一され、中世のルネサンスが息づいていた。

フィレンツェのシンボルである巨大なドームや鐘楼ドゥオーモ正面(左)とヴェッキオ宮殿
ドゥオーモ正面(左)とヴェッキオ宮殿

 ドゥオーモ広場に建つ巨大なドームが特徴の大聖堂は、イタリアにおける晩期ゴシック建築および初期ルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。礼拝堂や高くそびえる鐘楼が隣接し、信仰の中心でもある。1296年に着工し、140年以上をかけて建設された。戴きの円蓋はフィリッポ・ブルネレスキ(1377—1466)が設計した中世の傑作だ。

石造りで3連のアーチが架かるヴェッキオ橋

 石造りで3連のアーチが架かるヴェッキオ橋は、最初はローマ時代に架けられたが、数度洪水で流され、現在の橋は1345年に再建されたフィレンツェ最古の橋。1944年、フィレンツェからドイツ軍が撤退する際、ほとんどの橋が破壊された。しかし、ヴェッキオ橋についてはその歴史的価値に対する敬意が払われ、破壊を免れたという。

ミケランジェロやガリレオ・ガリレイら眠るサンタ・クローチェ教会05 フィレンツィアの広場で演奏を楽しむ若者たち

 ミケランジェロやガリレオ・ガリレイら眠るサンタ・クローチェ教会は、14世紀に完成したフランシスコ会の教会で代表的なゴシック建築の聖堂。協会というより白亜の殿堂といった風情で、教会前の広場では多くの観光客や市民らでにぎわっていた。

フィレンツィアの広場で演奏を楽しむ若者たち

 ルネサンス以前の中世では、絵画や彫刻はほとんど教会の依頼で制作されていました。商業で栄えたフィレンツェではメディチ家の支配の下におかれたが、その経済的な庇護によって、多くの芸術家が育った。また市民の変革精神が、それまでの宗教的なテーマから、より新しい表現を求め、芸術を創造する気風が広がったのだ。
 美の殿堂として有名なウフィツィ美術館は見逃せない。午後訪れたが、長い行列が続いていた。日本では特別企画展でも無い限り、ありえない光景だ。ここは13世紀から16世紀にかけての絵画が中心で、キリスト教絵画以外の名品を数多く見ることができる。

美の殿堂として有名なウフィツィ美術館

 お目当ては、ボッティチェリ(1445-1510)のルネサンスを代表する名画《ヴィーナスの誕生》(1483年頃)や《春》(1482年頃)だ。いずれもギリシャ神話の一節を題材にしているが、前者は帆立貝に乗った裸のヴィーナスが画面左側に描かれた西風のゼフュロスが送る愛の風に吹かれて上陸すると、時の妖精ホーラによってマントがかけられようとする構図。後者も中央のヴィーナスの周りに花の女神フローラなど美女たちを描く。

ボッティチェリ《ヴィーナスの誕生》(1483年頃)
ボッティチェリ《春》(1482年頃)

 《ヴィーナスの誕生》は、裸婦像を女神に仕立てて、等身大で堂々と描いていて、それまで主流であった中世キリスト教の禁欲的な思想とは異なり、美しいものを美しいまま描くというルネサンスの思想がよく表れている作品といえよう。

海に浮かぶ迷宮都市・ヴェネツィア


 ヴェネツィアは、水の都と謳われように海に浮かぶ都市だ。大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。1500余前は、いくつかの大きな島と、海の干満で見え隠れする多数の島が浮かぶ潟でしかなかった。

ヴェネツィアの街遠景。海に浮かぶ迷宮都市

 5世紀半ば、北イタリアの住民が、ゲルマン人の侵略から逃れ棲み始めたといわれる。やがて島のすそ野を広げ、島と島を結ぶ運河が張り巡らされた。そして120ほどの島、約150の運河、400を数える橋が出来て、迷宮都市に発展した。697年にはヴェネツィア人は初代総督を選出してヴェネツィア共和国の樹立したのである。

ゴンドラが運河を縫うように路地から路地へ

 ここに一泊したが、道は迷路のように入り組み、袋小路も多く、見通しもきかない。川に架かる橋には階段がついている。文明の利器である車も、この街では無用。乗り物といえば、水上バスや水上タクシー。有名なゴンドラが運河を縫うように行き来する。路地から路地へ、人は歩く。よそ者にはさぞかし非機能的で住みにくい街に思えるが、車社会の弊害を排したこの街は、住めば楽園かもしれない。

サン・マルコ広場の一角にある大聖堂

 ヴェネツィアの中心であり、玄関口となるのが湾に面したサン・マルコ広場だ。18世紀ヴェネツィアに侵入していたナポレオンが、幾何学模様の敷石の広場を見て、"世界一美しい広場"だと絶賛したともいわれている。時計塔に囲まれたこの広場と周辺にサン・マルコ大聖堂はじめ、ドゥカーレ宮殿、コッレール博物館、新政庁などが建つ。

ドゥカーレ宮殿前の広場には小鳥も憩う

 広場に隣接するドゥカーレ宮殿は、共和国の総督邸兼政庁として8世紀に建設され、その後火災により15世紀に現在の形に改修された。ゴシック風のアーチが連なる外観は、イスラム建築の影響がみられる細やかな装飾が施され、異国情緒も感じられる。内部には16世紀後半のヴェネツィア派の画家たちの作品で彩られているす。その中でもルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠、ティントレット(1518-1594)が描いた《天国》(1588-1592年)を鑑賞した。宮殿の大評議会の間を見下ろす、高さ7メートル、横幅22メートルという巨大なキャンバスに描かれた世界最大級のキャンバス画の1つである。

海を臨む小広場(左側がドゥカーレ宮殿

 水の都ヴェネツィアは、15世紀から16世紀にかけて海洋交易により飛躍的に繁栄し、異文化の交わる国際都市として発展を遂げ、美術の分野でも黄金期を迎える。政庁舎や聖堂、貴族の邸宅を飾る絵画が数多く制作され、華やかな色彩と自由闊達な筆致、柔らかい光の効果を特徴とする、ヴェネツィアならではの絵画表現が生み出された。

アカデミア美術館の建物は一見質素だが、展示品は一流

 アカデミア美術館は1817年開館し、14~18世紀にかけてのヴェネツィア絵画を中心に、約2000点を数える充実したコレクションを有す。ティツィアーノ、ティントレット、ベッリーニなどの傑作が展示されているが、時間がなく断念したが、後に大阪の展覧会場、代表作をじっくり鑑賞できたので後述する。

リアルト橋は最も歴史の古い橋

 1987年に1987年に「ヴェネツィアとその潟」として世界遺産にも登録されているリアルト橋は、カナル・グランデにかかる4つの橋のうち、最も歴史の古い橋だ。建築当初は木造だったが、橋にかかる重みや火災によって崩壊したことから白大理石のアーチ橋に作り替えられ、「白い巨像」という別名がついた。橋周辺は商業エリアとして栄えており、お土産屋さんも多数あり、夜間にはライトアップが施され、賑やかな昼間とは違った幻想的な雰囲気を醸していた。

ため息橋はカップルが訪れる人気スポット

 リアルト橋と並び有名なため息橋は、カップルが訪れる人気スポットになっているが、16世紀にドゥカーレ宮殿から運河で隔たれた対岸にある牢獄へ行くために架けられた橋だったそうだ。
 イタリアでは、近代的な国家統一が遅れたため、中央集権が進まず、多面的な顔を持っている。フィレンツェとヴェネツィアで一時代を彩ったルネサンスの美は、時代を経ても色褪せない。文芸に限らず広く再生への活動はヨーロッパの他の地域へ波及した。歴史や地域を異にするものの、人間性尊重の街づくりや芸術活動創生の精神性に、ルネサンスの本質が宿るのであろう。

ヴェネツィア・ガラスの工房

日伊国交樹立150周年記念の3特別展


 時を経て、2016年から翌年にかけて、日伊国交樹立150周年記念の一貫として、日本で次々と3特別展が開催され、それらをすべて鑑賞したので書き添えておく。海外の旅では、美術館鑑賞にそれほど時間をかけられない。来日したルネサンス絵画を主な作品とともに掲載する。
 まず「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展は、国立新美術館に続き、2016年10月、国立国際美術館に巡回。ヴェネツィアのアカデミア美術館所蔵品による本邦初の企画展で、15~17世紀初頭に至るヴェネツィア・ルネサンス絵画約60点を厳選し公開された。

ジョヴァンニ・ベッリーニ《聖母子(赤い智天使の聖母)》(1485-90年、アカデミア美術館)
ヴィットーレ・カルパッチョ《聖母マリアのエリサベト訪問》
(1504-08年、アカデミア美術館蔵)

 初期ルネサンス絵画を代表する最大の画家がジョヴァンニ・ベッリーニの《聖母子(赤い智天使の聖母)》(1485-90年、アカデミア美術館)。ヴィットーレ・カルパッチョ(1460頃-1526)は、《聖母マリアのエリサベト訪問》(1504-08年)で、当時のヴェネツィアの風俗を見事に描いていた。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《受胎告知》(1563-65年頃、アカデミア美術館蔵)

 ヴェネツィア絵画の黄金時代を創り出した一人、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90-1576)の晩年の大作《受胎告知》(1563-65年頃)がサン・サルヴァドール聖堂から特別出品されていた。大天使ガブリエルがマリアに受胎を告げる場面は、聖堂や教会を飾るテーマながら、ティツィアーは、天が開け、まばゆい光とともに聖霊が降臨し、お告げに耳を傾けるマリアの姿を大胆に力強く描出した。

ボニファーチョ・ヴェロネーゼ《父なる神のサン・マルコ広場への顕現(「受胎告知」三連画より》(1543-1553、アカデミア美術館蔵)

 ボニファーチョ・ヴェロネーゼ(本名ボニファーチョ・デ・ピターティ、1487頃-1553年)の《父なる神のサン・マルコ広場への顕現(「受胎告知」三連画より》(1543-1553年)も注目された。
 このほか16世紀になって華々しくデビューしたティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノの三巨匠たちの大作も展示。ヴェネツィアの肖像画では、宮廷風の堅苦しさから、自由でカジュアルな、時に内面性への深い洞察を含んだ様式に発展させ、その後の西洋美術の肖像画制作のモデルとなるベルナルディーノ・リチーニオ(1485/90-1549以降)の《バルツォ帽をかぶった女性の肖像》(1530-40年頃)などの傑作も出品されていた。
 次いでバロック絵画の端緒となった「ティツィアーノとヴェネツィア派展」は、2017年1~4月に東京都美術館のみで開かれた。ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノを中心に、黄金期を築いた多様な芸術家たちの絵画約70点で、ヴェネツィア・ルネサンス美術の特徴とその魅力を伝えていた。ティツィアーノは、神話の登場人物から教皇や貴族の肖像まで人間味あふれる姿で描き、ミケランジェロが嫉妬し、ルーベンスやルノワールも憧れ、「画家の王者」と称えられている。目玉は初期の代表作2点だった。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《フローラ》(1515年頃、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)

 《フローラ》(1515年頃、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)は、つややかな肌を描き、イタリアの人々にこよなく愛されてきた花の女神フローラを描いた作品だ。単なる神話画というよりも女神に扮した娼婦の肖像であろう。あるいは右手の薬指に指輪をはめていることから花嫁や結婚の寓意像とも解釈されている。
 

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ダナエ》(1544-46年頃、ナポリ・カポディモンテ美術館蔵)

《ダナエ》(1544-46年頃、ナポリ・カポディモンテ美術館蔵)は日本初公開作品。アルゴス王アクリシオスの娘であったダナエを描いたこの作品は、彼女が魅力的な裸体を惜しみなくさらし、金貨の混ざった黄金の雨を恍惚としたまなざしで見つめている。官能的な一場面を想像力豊かに描き出した、現在も高い評価を受ける名画である。

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《復活のキリスト》
(1510-12年、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)

 ティツィアーノは長い画歴のなかで、次々と様式を変化させていった。後年には、筆致の荒々しさが増し、光と影の対比を強調した表現へと移行する。ティツィアーノ作品では、《復活のキリスト》(1510-12年、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)が目を引いた。

パオロ・ヴェロネーゼ(《聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ》
(1562-65年頃、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)

 パオロ・ヴェロネーゼ(本名:パオロ・カリアーリ、1528-88)は、褐色系の色調で人物を浮かび上がらせる独自の描法を創出した。《聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ》(1562-65年頃、フィレンツェ・ウフィツィ美術館蔵)は、聖女バルバラの金髪の輝きや豪華な衣服の光沢の表現に技量を遺憾なく発揮し、ヴェロネーゼ芸術の真骨頂と評価されている。
 もう一つの展覧会「遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア」は、2017年4~7月、神戸市立博物館で催された。天正遣欧少年使節は、イエズス会の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの発案で、1582年(天正10年)、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された。伊東マンショら4名の少年一行は、ポルトガルとスペインを訪問後、イタリアのリヴォルノに到着し、フィレンツェ、シエナを経て、目的のローマ教皇に謁見する。展覧会は天正遣欧少年使節が訪れたイタリア各地の都市の美術を訪問順に紹介していた。
 ルネサンスの中心フィレンツェの名画・工芸品をはじめバニャイアのタピスリー、教皇との謁見を果たしたローマからは教皇が描かれた絵画、ペーサロの物語を描いた美しい陶器、ヴェネツィアからは世界に誇るガラス工芸や色彩豊かなヴェネツィア派の絵画など、それぞれの都市に花開いた特色ある美術品約70件が出品されていた。

アレッサンドロ・アッローリ派《ビア・デ・メディチの肖像》(1542年頃、ウフィツィ美術館蔵)

 フィレンツェでは、メディチ家の人々を描いた絵画や大公の工房で作られた工芸品が並んでいた。中でもポスターやチラシ、図録の表紙を飾るのがアレッサンドロ・アッローリ派の《ビア・デ・メディチの肖像》(1542年頃、ウフィツィ美術館蔵)。コジモ1世の宮廷画家ブロンズィーノの代表作で、日本初公開だった。
 肖像画ではブロンズィーノの《ビアンカ・カペッロの肖像》(1578年以降、ウフィツィ美術館、パラティーナ美術館)や、小品ながらバッキアッカ(フランシスコ・ウベルティーニ)の《女性の理想的な肖像》(16世紀、富士美術館蔵)もすばらしかった。
 工芸品ではトスカーナ大公の工房による《小鳥、花瓶、戦利品を表したテーブル天板》(17世紀前半、貴石研究所美術館蔵)も。ローマへの道中ではフォンターナ工房の《ガラテアの凱旋の描かれた大皿》(1550-75年、アレッツォ国立中世・近代美術館)なども出品されていた。  

ローマの画家《ヨーロッパ内外にセミナリオを設立するグレゴリウス13世》
(16-17世紀初頭、グレゴリアン大学蔵)

 ローマの画家が描いた《ヨーロッパ内外にセミナリオを設立するグレゴリウス13世》(16-17世紀初頭、グレゴリアン大学蔵)は、画面中央の天蓋の下に座った教皇グレゴリウス13世が、世界各地でのセミナリオ設立の意思を、イエズス会士たちに託す場面が描かれている。跪くイエズス会士が教皇から渡されている書類には「日本(ヤポニクム)」の文字も見えた。
 

ドメニコ・ティントレット《伊東マンショの肖像》(1585年、トリヴルツィオ財団蔵)

一行は水の都ヴェネツィア共和国を訪問している。2014年に奇跡的に再発見されたドメニコ・ティントレットの《伊東マンショの肖像》(1585年、トリヴルツィオ財団蔵)が出品されていた。元老院によってヤコポ・ティントレットに発注された肖像画で、後に息子のドメニコが完成させたものだ。

ティントレット《レダと白鳥》(1551-55年、ウフィツィ美術館蔵)

 この地に関連したティントレット(ヤコポ・ロブスティ)の《レダと白鳥》(1551-55年、ウフィツィ美術館蔵)も有名な作品。王女レダに恋した神ユピテルが白鳥の姿に変身し、彼女と交わるというギリシャ神話の物語の場面を描いたもので、イタリアルネサンス期によく描かれた主題だ。

 

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