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【エッセイ】小学校の「文集」の「好きな食べ物欄」には「土筆の油炒め」と書きました。

【2023年8月21日執筆】

皆さんは、土筆(つくし)を食べたことがあるだろうか。子どもの頃の私は、土筆を家で調理して食べていた。静岡県西部の山間部の小学校に通っていた頃だ。

4歳年上の兄がいて――田んぼのある土手に生えている土筆を採ってきた彼が、自分で調理をしていたことが思い出される。食への関心が強かった私は、土筆の調理をする兄を見ていたと思う。

頭の奥にある当時の映像では、兄は「はかまと胞子がある頭の部分」を取り除いた土筆を、まず鍋で茹でていた。熱が通ると土筆は柔らかくなり、痩せていく。元々それほど太くはない茎はしなびてしまう。さらに兄は茹で上がった土筆を水でさらし、ざるに揚げたものをさらに絞った。大量に採ってきたはずの土筆はてのひらにのるくらいに縮んでいた。

 

「はかまと胞子がある頭の部分」を外す作業はかなり面倒なもので、爪の間に胞子が入り込む。丁寧に続けるのが続かない私はこの作業が苦手であった。しかし、外し終わったらまた別の作業がある。それは、土手に行って、この「はかまと胞子がある頭の部分」を蒔かなければならなかったのだ。

「土筆がり」のイベントは当時の子どもたちにとっては無関心なものとは言えず、同じように摘んでいく者たちもいたはずだ。ましてや大人たちの中には「食用」として摘んでいく人たちもいたはずで――私は「早く摘まないとなくなってしまう」という思いで――なんだか居ても立っても居られない落ち着いていられない気持ちに毎年なっていたと思う。

田んぼは川沿いにあり、集落は川の水位よりも高台にあった。土手は、川から集落に上っていく途中にあった。土手のどこにでも土筆が生えるわけではない。棚田になったところの高い土手のあぜ道が土筆がりスポットであった。土筆はスギナの胞子茎だそうだ。スギナのある場所は土手にはたくさんあったが、土筆は「それほどたくさん生えていなかった」のは子ども心に不満であった。もっとたくさん生えたらいいのにといつも感じていたと思う。

「はかまと胞子がある頭の部分」は土手の中ほどの、土筆が生える場所の土のところに蒔いた。次の年にさらに大量の土筆が生えてくることを願って蒔いたと思う。

ある年に、自宅の裏庭の隣の家との境の土手に「はかまと胞子がある頭の部分」を蒔いたりもした。自宅で土筆が生えないかと思ったからだった。同じようにスイカや桃の種なども埋めたことがあるが、何一つ生えてきたことはなかった。子どもにとってスイカや桃は特別な果物であったから、土筆の「はかまと胞子がある頭の部分」を蒔いた私の心には「土筆」もまた特別な存在であったのだろうと思う。

 

兄は「絞ったあと、てのひらにのるくらい縮んでいた土筆」を包丁で「父親が釣りに行くときに探させられたイトミミズ」くらいの長さに刻んだ。フライパンにごま油を引き、熱が通ったところで土筆を入れた。菜箸で炒めたあとに、兄は醬油をたらし味付けをした。仕上げに化学調味料を入れていた。今なら「無化調でよい、そんなものいらない」と言うところだが、当時はなんだかそんな兄を尊敬のまなざしで見ていたはずだ。

「食べてみるか」「うん」

その味の記憶は、今となってはあいまいな記憶でしかないが、その後毎年のように自分で採ってきては「兄の手ほどきで」自分で調理するようになっっていた。
兄が土筆を調理しなくなっても、自分はその後かなりの期間「土筆の油炒め」を作り続けたことを考えると、記憶に刻むごとき味だったのだろうと思う。

 

数十年たった。今は土筆を採ることもないし、調理することもなくなった。どうしても食べたいという気持ちも今はない。そっとしておきたいように思っている。

あるとき妻から「土筆」が大好物だったという話を聞かされて、おっと思ったことがある。

「どんな味付け?」
「うん、卵とじ。おかあさんが作ってくれた」
「へえ」

 

小学校時代の「文集」の「好きな食べ物欄」に「土筆の油炒め」と書いた記憶がある。たぶんやや受け狙いであって――自分のいちばんの大好物ではなかったと思うが…。


「もう一度食べたい」と思う記憶上の食べ物もたくさんあるが、「そっとしておきたい食べ物の記憶」もあっていいだろうと思っている。


©2023 tomasu mowa


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