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「ゆるし」と「罰」(死刑について/平野啓一郎)
平野啓一郎の小説には、生と死を扱ったものが多い。
その背景には死刑反対派である自身の考えがあり、本作はダイレクトにこの問題を論じた論文のような作品。テーマは重いが、短く簡潔なのですぐ読めた。
私自身は、死刑賛成派である。
それは被害者の遺族がどうという感情論ではなく、どちらかというと確率論で、自然界で生命が当たり前に淘汰されていくように、どうしても死という方法でしか対処できないDNAや思想を抱えた人間が、ある程度は生まれてきてしまうという考えの元だ。
だけど本作を読んで、反対派の理由の中に自分が想像してなかったものがあり、ハッとさせられた。
・人を殺してもよいとする社会
「人を殺してはいけない」ということは、絶対的な禁止であるべきで、事情があれば殺してもいいという、相対的な規範であってはならない。
ところが死刑制度は、人を殺すような酷いことをした人間は殺しても良い、仕方ないという例外規範を設けていることになる。
このような例外規範がある限り、何らかの事情があれば人を殺しても仕方ないという思想は社会からなくならない。
・死刑は政治日程との兼ね合いで執行される
死刑執行がどのように決められ、どのように行われているかなどの情報は開示されてないが、実は政治と官僚組織の中でとてもシステマティックに議論され、しかも、ほとんど恣意的に決められている。
人間の命について、同じ人間が話し合いながら決める、というのは、決してやってよいことではない。何か特別なことがあれば人を殺しても仕方ない、そのための計画をみんなで話し合ってもいい、という発想自体に、根源的な誤りがある。
国家の中で、人間の生そのものの重さを無視した行為がなされていることが、結局のところ、私たち一人ひとりの倫理の中に、殺人に対する例外的な「許可」の感覚を与えている。その証拠に、勧善懲悪的なフィクションの中では、私刑としての殺人がまったく肯定的に描かれてきた。
・なぜ日本では死刑が支持されるか?
一つに、日本における人権教育の失敗がある。相手の立場になって考えよう
という共感能力は大切だが、人権をこのように感情面だけで捉えてしまうのは危険だ。なぜなら、共感できない相手に対しては、差別も暴力も、何の歯止めも効かなくなってしまうからだ。授業では、とても共感できない人の人権をこそ尊重するケース・スタディが必要だ。
もう一つには、宗教的な問題がある。キリスト教の世界は最終的には神によって裁かれることを前提としており、人間社会で最終的な審判を下すことは
できず、それが人間同士の「ゆるし」の根拠となっている。一方、絶対的な神の存在がない日本では、人間社会で起きたことは全て人間社会の中で解決しなければならないという考え方につながっている。
リーマンショック後の自己責任論もまた、死刑賛成論の根拠となっている。先日読んだ『ファスト教養』にも、ホリエモン登場以降のITバブルが「自己責任論」を加速させたと書かれていたが、
この自己責任論が、死刑判決を受けるような犯罪加害者の家庭環境などが非常に劣悪であるということに対して、ますます目を逸らせている。
小説『ある男』の中での、弁護士の城戸の台詞が、平野氏自身の考えだという。
「立法と行政の失敗を、司法が、逸脱者の存在をなかったことにすることで帳消しにする、というのは、欺瞞以外の何ものでもなかった。もしそれが罷り通るなら、国家が堕落すればするほど、荒廃した国民は、ますます死刑によって排除されねばならないという悪循環に陥ってしまう」
それでも、『ヤクザ・チルドレン』でも描かれていたように、劣悪な家庭環境にある人を救う方法が、余裕が、現在の日本にはなさすぎる。
だから、そもそもそういう家庭が生まれないように司法や経済を何とかしなきゃという考えには賛同できても、どうしても現実的ではないように私は感じてしまう。
ただ、「死刑制度があるから、人を殺してもいいという思想が生まれる」という思考は、もはや逆説的に感じられたほど、ハッとさせられた。
ユダヤ人の思想家ハンナ・アーレントは『人間の条件』の中で、このようなことを述べている。
「ゆるし」と「罰」は正反対の概念に見えるが、第三者が介入しなければ終
ことのない復讐の連鎖を止めるという機能においては、同じ意味を持っている。
復讐心を抱いて、相手を憎み続けるというのは、際限もなく生のエネルギーを消耗させる。この憎しみに終止符を打つものとして、「ゆるし」と「罰」がある。
そして、憎しみを終わらせるものとして、「ゆるし」の機能に人生で初めて気づいたのがナザレのイエスである。
最愛の人を理不尽な理由で殺されたとして、加害者をゆるせる人がどれだけ
いるだろうか。
神の存在は、無神論の私たちが思う何倍も、大きいような気がする。