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ユウレカ(フランスの高校生が学んでいる哲学の教科書/シャルル・ペパン)

フランスの高校では哲学が必修科目で、大学入試でも文理を問わず筆記試験が課されるらしい。
本作は学生向けに書かれた解説書で、主体、文化、理性と現実、政治、道徳の大きなカテゴリーに分け、時に学生の普遍的な質問に答えながら哲学を解説していく。
ドキッとした箇所がいくつかあったのでメモ。
(私はフランス語を勉強したことはないけど、この翻訳者、微妙な言葉の違いをすごく上手に訳している気がした。すごい)

主体

・欲望と他者

ヘーゲルは、人間と欲望の結びつきこそが人間の特性だと言う。
欲望を満たそうとするところまでは動物と同じだが、人間はそれだけでは満足できない。欲望が満たされ、さらにその欲望が他者によって認められること、欲望にこめられた「意味」が理解されることを望むのだ。

・時間と主体

サルトルは「人間はその人の行動の集積でしかない」と主張する。
主体は生きている間ずっと、新しい出会いがあるたび、再定義され、方向を変え、修正されていくことになる。だがそれも生きている間だけであり、生
という限定的な時間の中にあって人間は自由なのだ。

・Q 本当になりたいものは何か、どうしたらわかる?

デカルトは「行動の世界」と「形式上学的真理の世界」を区別し、「行動の秘訣は、行動を起こすことだ」と書いている。
行動の世界において、私たちはその選択の意味や結果を確信することはできない。だが、疑念を抱きつつも行動する勇気、つまり、はっきりしない部分に一歩踏み出すことが重要なのだ。
どんな出会いにも言えることだが(だからこそ出会いは美しいのだが)、人はあらかじめ、その出会いが自分の人生にどんな影響を及ぼすかを予想することはできない。そこに踏み込んでみないことには、それが「本当に自分がやりたいこと」に通じる道なのか知ることができない。それでいいのだ。

文化

・Q 真面目な話になるとすぐ皮肉を言ったりからかったりしてしまう。真面目にならなくても哲学はできますか?

まず、皮肉を言うのとからかうのは違う。それを理解すれば世界との向き合い方や、周囲との付き合い方も改善されるだろう。
からかうというのは他人を笑いものにすることだが、皮肉はその人の知性に訴えることだ。からかいは、相手がからかわれていることに気づいていないからこそ、してやったりという思いになるが、皮肉の場合は、言われた相手にその微妙なニュアンスを感じ取るだけの感性がないと意味がない。相手との間に暗黙の了解、共有する世界があってこそのものなのだ。

道徳

・Q 実践を伴わない哲学者が多いのはなぜなのでしょう?

ニーチェは「自分にかけられた鎖を解くことができない者でも、友達を救う者になることもある」と言う。
人は自分が知っていること、自らの経験をもとにしか話せない。私はどうして自分が実践できていないことを話せるのだろう。いや、実践できてないからこそ、哲学を語ることができるのだ。

<以下は、後半のキーワード解説のコーナーより>

抽象と具象

具象で考える場合、幸福ははっきりと目にみえる。例えば、海辺の家、愛する人が目の前に実在すること、親の腕に抱かれて眠る赤ん坊。つまり、具体例を挙げることでしか、幸福は定義できない
概念には形がないし、幸福を理屈で定義することもできない。だからこそ、全てに通底する何かを、具体例から引き出して考えることが必要になる。抽象的な幸福は調和や満足感ということになる。

直観的と論証的

理論や立証、大学における哲学の講義は論証的である。つまり、順序を追い、その解説を構成する、もしくは構成するだろう段階ごとに進んでいく。だが直観によって、一瞬で物事を把握することもある。デカルトは『精神指導の規則』の第三規則で、直観を「精神のまなざし(で見ること)」と呼んでいる。ただし直観には2種類ある。ひとつは論証の起点となるもの、もうひとつは論証的な分析をある程度の時間重ねたうえで訪れる到達点、ご褒美のように与えられるひらめきだ。
アルキメデスが「ユウレカ(ギリシャ語で「見つけた!」)」と叫んだのは、ある日、突然正解が降ってわいたからではない。論証の起点ではなく、熟考の末に辿り着いた終点に、答えが待っていたのだ

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