定価の感想(転の声/尾崎世界観)
クリープハイプのボーカル・尾崎世界観による3作目の小説。
処女作『祐介』は半自伝と思しきバンドマンの話、2作目『母影』で自己投影から脱却し、少女を語り手にして芥川賞にノミネートされた。だからもうバンドマンの話は書かないのかと思っていたが、本作は再び、売れてなかった頃のクリープを彷彿とさせる話だった。(そして2度目の芥川賞ノミネート)
舞台は、チケットの転売という行為が認められ、転売ヤーが現在のYouTuberのように持て囃され、無観客ライブの価値が有観客ライブと逆転し、転売を重ねてプレミアが付くことがステータスとされる世界。
「これって今はタブーとされてるけど、10年後は全く逆の価値観が浸透しているかもよ?」という、村田沙耶香的な実験物語だ。
主人公はやや落ち目のロックバンド・GiCCHOのボーカル、以内右手。
エゴサが趣味の以内が、Twitterに氾濫する【譲】【求】を見て自身のライブチケットの値付けに一喜一憂し、「転売は悪。でも値段が上がると嬉しい」という複雑な心境に揺れる様は、尾崎世界観自身なのだろう。他にも、当事者でなければ書けないであろう描写が随所に散りばめられている。
以内は声がうまく出ない自分を恥じながらも、最後の最後、自身の無観客ライブに忍び込んできた客の女性を見て気づく。彼女はプロとしてあるまじき自分の”価値ある失敗”を観にきている。彼女の目は、プレミアに逃げようとする恥ずかしさも苦しさも通用しない”定価の目”だったー
私自身、おそらく20回はクリープハイプのワンマンライブに行ったことがあり、蚊の鳴くような声しか出せなかった頃の尾崎世界観と、当時のクリープを観にくるファンの眼差しを知っている。だからこの最後のくだりが、ものすごい説得力をもって頭に残ったのだけど、世界観やクリープを知らない人が読んだら何を感じるのだろうかと少し疑問に思った。
先日、別の時期に芥川賞を受賞した市川沙央『ハンチバック』を読んだ。
重度の障害をもち、人工呼吸器に繋がれ、本を読むことさえ重労働な主人公の女性が「妊娠して中絶してみたい」と願う、エログロで不快な描写が多くとても感想を書く気になれなかった。
だがしかし、著者自身が同様の障害をもつ女性だと後で知った。
芥川賞授賞式で車椅子に乗って現れた彼女の姿を先に見ていれば、私は違った読み方をしただろう。だけど、小説に限らず絵画でも映画でも何でも、作者の過去やステータスを知らなければ本当の意味で理解できない作品が、私はあまり好きではない。
尾崎世界観の文章が好きだからこそ、ミュージシャンから離れた作品がまた読みたいと思った。