個性とは選択の歴史だ
前の前にいた会社で、ある時3か所の事業所が閉鎖され、1か所へ拠点集約ということが行われました。集約される拠点の場所は、閉鎖される3拠点から約2時間〜4時間超の距離にありました。仕方なく数百人が民族大移動することになったのです。
通勤を選択する人、単身赴任となる人、家族まるごと引っ越す人、これを機に辞める人、人それぞれでした。
会社が遠くへ移転するということは、人によって悲喜こもごもです。2時間超かけて満員電車で通勤していたのが、突然15分の徒歩圏に会社の方からやって来たという人もいたり、全くその逆だったり、さらに3時間超になった人、家を建てたばかりなのに単身赴任、入学したての子ども二人をやむなく転校させるなど、それはそれは大騒ぎでした。
ボクはこの事態を予想していました。その1年以上前から会社の敷地内に地質調査した痕跡を見つけていたからです。
それはアスファルトの直径10cmほどの輪っか状の溝でした。円筒状のサンプル土壌をくり抜いて埋め戻した跡です。変な工場排液で汚染されていたら売ろうにも売れないから調べたのでしょう。
お、会社はこの土地を売ろうとしているのだな、まー梅田から近いから高く売れるだろうしな、ぬーでは我々はどうなるのかな、むー少なくとも今以上に便利な場所に移ることはあるまいな、おーそう言えば家を建てたばかりの後輩がいるな、あー可哀想にな、などと思っていました。
この時の、通勤か単身赴任か引っ越しかなどの騒ぎ、また単身赴任でどこに暮らすのか、どんな間取りにするのかなどの人の動きを見て、人それぞれ個性あるなあ、自分ならそんな選択はしないなあ、などと思いをめぐらせていると、ああ人の個性とは選択の積み重ね、選択の歴史なのだなあ、と結論に至りました。
その人の考え方、価値観、生活スタイルなどの総合的なものがその人の個性です。それぞれ、どんな考え方を選んでいるか、どんな価値観や生活スタイルを選んでいるか、全ていろいろなことに対する選択した積み重ねが個性を作っているのだということに気づいたのです。おお、なかなか哲学的。
ある分野にA、B、Cという選択肢があったとします。Aがメジャーな選択肢でこれを選ぶ人は普通な人、Cのマイナーな選択肢を選ぶ人は少し変わった人と称されるでしょう。選ぶ必要のあることは無数にあり、誰もが全て普通のメジャーを選ぶはずはなく、その人の偏りがあるはずです。それが個性なのです。
日曜日に白いプリウスに乗ってイオンに行きユニクロで買い物をしてスシローで食べて帰ってくるような普通な人でも、帰ってエグいスプラッター映画を観ているかもしれません。
その日、何を着るのか、そもそもその服をどれだけの服から選んだのか、その服を買う店はどれだけの店から選んだのか、どのショッピングモールや百貨店から選んだのか、どの街で買ったのか、そしてその服と合わせる靴は、そしてどこへ出掛けるか、どれだけの会社からその会社を選んだ、どうしてその学校を選んだ、その部活を選んだ、その本を、その友を、そのパートナーを、
ありとあらゆる選択の歴史があり、それが個性なのです。そしてその個性は延々と選択を続けるのです。
さて、個性的と呼ばれる人、突出した人、創造的な人などは、凡人が考える選択肢以外の、とても思いつかない選択肢から選んできているのではないでしょうか。
凡人ならA、B、C、せいぜいD、Eを思いつくのが精一杯の場合でも、その先のX、Y、Z、ぜんぜん違うα、β、ωまでの選択肢を持っているのではないでしょうか。
たくさんの選択肢を持つことが、抜きん出ることになると考えています。誰もが思い付かないことを選び、誰もがやろうとは思わないことを選び、くじけたり疲れたりすると、誰もが休むことを選ぶときに、休むことは選ばずくじけない、などの積み重ねによって突出できるようになるのではないでしょうか。
ボクに関して現在は、痛い中二病的な選択肢、つまり安泰な会社生活を辞めて起業するという選択肢を選んでしまっている状態なのです。
その起業を諦めそうになってもコツコツ続ける、死球を受けても試合に出続ける、衣笠祥雄さんが選びそうな鉄人の選択肢を日々選んでいけば、いずれは成長して成功できるんだと、青い高二病的に考えています。痛い中二病と青い高二病が共存しているのです。
自分の中の衣笠祥雄を育てていこうという話でした。ちょっと違うか。
衣笠祥雄って言っても、今の中二や高二には通じないか。それではまた。
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