戦国武将から投稿するシリーズ➀ 風にたなびく風林火山。その旗の先には...後編
前編の記事です。
絵で見る信玄公
「どうする家康」で信玄公を演じられた阿部寛さん。
貫禄にして風格もありますね。「武田入道信玄」という言葉も良いかもしれません。😌
入道とは…仏道に入ること、出家剃髪すること、また煩悩を断って悟りの境に入る事。
武田信玄を支え続けた武田二十四将
「人材こそが強固な守り」
以下引用です。
武田二十四将は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称。
最大限の人材活用をし、前進していたと思います。😌
軍師 山本勘助
よく学生がテストで勘でやまを張る✍️=ヤマカンはこの山本勘助から由来しています。
晴信公は晩年仏門に入り、「武田晴信」からお馴染みの「武田信玄」に改名しましたが数々のダークな事、謀り事もしてきました。
世は「戦国時代」綺麗事だけでは生き残れない、トップには立てないのでそれは必然だろうと思います。
只今、NHK大河ドラマで放映しています「どうする家康」の徳川家康公も信玄公と戦った事があります。
徳川家康公唯一の敗戦。しかも大敗北。
三方ヶ原の戦い
大敗北を喫して命からがら城に逃げ込みました。迫る武田軍に家康公はもう為す術もないと覚悟を決めます。
そこで「空城の計」を使います。
しかし「空城の計」とは城の門を自ら開け息を潜め「誰も居ない」と見せかけるだけの計。
あっさりと信玄公はこれを見破りましたが…「窮鼠猫を噛む」の諺もありまた、目先の小事より将来の大事(京への上洛)を選び、軍配は上げず敢えて見逃したのです。
恐らく自身の病に(癌と言われています)長くはないと悟って…
武田軍が去った後、皆様、家康公は何を行ったと思われます?
何と「絵師」を呼び自らの姿を描かせました。
これが👇大敗北の直後に絵師に描かせた絵です。
「この恐怖と敗北感を生涯忘れない為に」との想いで。
この後は引き分けはあっても負けは一度もなく徳川幕府を開府した事は皆さんご承知の通りです。
いやぁ〜ものスゴイエピソードだと思います。✨😌✨
信玄公はこのあと程なくして志半ば行軍中に病死してしまいます。
あの織田信長公と戦う前に…
歴史にイフ(IF)はあり得ませんがあと7年程信玄公が存命でしたら京の都に上洛後、火縄銃が全国的に大量普及する前に「武田最強騎馬軍団」🐎を駆る武田信玄公が全国統一を果たし、武田二十四将を適材適所に配置し間違い無く「武田幕府」が開府していたと私は考えます。
そうであったならば令和の今の日本も大きく変わっていた事でしょう。
時には歴史浪漫の「もしも」に想いを馳せる事もまた良きかな。😌
…いつか…「マジカルの兵法書」🧙🪄📖みたいな物が書けたらいいな。😅🤚