![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/65039443/rectangle_large_type_2_ab7082eb12fb5746a5eb064832cc450d.jpeg?width=1200)
まげのすきなもの〜ゲーム編〜
昭和ギリギリ世代のゲーム変遷
昭和62年。ギリギリ昭和生まれの僕らは、メンコや鬼ごっこからいつしか友達のお兄ちゃんが持っていたファミコンや、スーパーファミコンといったゲームを覚え、ビーダマンやミニ四駆が残るなか、たまごっちやFF、ドラクエといった今も残るゲームたちと共に育った。
少し外の世界へ憧れを広げたらストリートファイターやジャスティス学園、鉄拳がゲームセンターにはあり、そこにはまた少し違う世界が広がっていた
でもゲームセンターに行ったらたかられる…
これは中学生の被害妄想や、社会の知らなさゆえではなくしっかりとそこに残っていた。
そんなちょーどいい田舎で育ったまげ少年はもちろん例外なく中学の帰り道に寄ったゲームセンターでたかられりなんかして、まぁなんだかんだたくましく育っていたのだった。
大人になって10時間ゲーム配信したり、一日中ゲームセンターにいた僕だが、意外にも少年時代にゲームはほとんどしておらず日が暮れるまで公園で一生ノックをしていた。
そう。僕はノックをする側。
イカれた鬼コーチだ。
弟と幼なじみのユウはずーーっとボールを追いかけていた。
弟はその甲斐あってか、小学生の時に少年野球の大会で東海大会で優勝していた。
そんな僕のイカれたゲーム生活は16歳から17歳にかけて突然はじまる。
鉄拳デビュー
なぜゲームセンターへ行ったのかあまり覚えていない。
きっと興味本位だろう。
最初はゲームセンターにいるちょっと歳上のどこかおっかなくて、でも楽しそうな感じが羨ましかった。
なんかそこに入りたいなぁなんて思ってたのかもしれない。
当時のゲームセンターは今と違い、向かい合って、もしくは隣での対戦だ。
これはいまのオンライン環境とは僕にいわせれば大きく違う。
そもそも筐体に座る前から心理的駆け引きすら存在している。
が、その存在に気づくのはもう少し後のことだ。
とりあえず100円を入れてはじめた。
そしたら程なくして乱入されて呆気なく負けた。
悔しかったからまた100円入れた。
また負けた。
その繰り返しでその日持ってたお金は無くなった。
気づいたらカードを作っていた。
戦績や段位が残るようになりより自分の実力や結果がわかった。
あっという間にカードで1000試合して勝率は30%にも満たなかった
ゲームセンターで最年少で最弱者となった
まげのゲームセンター道の始まりだった
パチスロとゲームセンター無限ループ
かれこれこの生活がおそらくここから5年ほど続く…
この間にエピソードがいーっぱいあるのだけど、それはいま整理もついてないしまたの機会に書けたらいいなと思う。
兎にも角にもこの時はパチスロ黄金期。バイトとスロット、ゲームセンターの無限ループでほとんど家や学校にも寄り付かず、もはやどんな生活をしていたのかあまり覚えていない。
とにかくゲームセンターに行きまくっていた。
むしろ住んでた。
鉄拳をやり続け、対戦相手、段位を上げるために最初は愛知の中で回っていたゲームセンターも次第に、浜松、岐阜、と足を伸ばすようになり、
ついには京都や長野、立川までゲームをしに行くようになっていたw
これには自分でも驚きである。
もちろん鉄拳プレーヤーの間では有名な
明大モンテカルロや純情モンテカルロ
ヤマダマン見たいがために川崎ゲーマーズビジョンやら、サファリ池袋、歌舞伎町まで
あらゆるゲームセンターへ行ってみた。
僕はそこまで強くなかったw
でもとにかく楽しかった
ゲームという共通言語を通して全然育ちや生まれ、世代も違う人と交流できることが楽しくなって地元のゲームセンターではいつしかちょっとした有名人になっていた。
ハーフライフに出会う
今では当たり前となったオンライン対戦
しかし当時はもちろんなくてゲームセンターではじめてオンライン対戦というものに出会ったのが
ハーフライフ2
当時オンラインが新しかったのはもちろんのこと、この筐体で、しかもいまは荒野行動、PUBGなんかで割と有名になったがFPS(厳密にはTPSとかなのかな?)のゲームというのはとても新しかった。
4対4の全国バトル
当時の僕らはこのゲームにとんでもなく熱中した
自分でもいうが結構なランカーだったと思うし全国月間ランキングでもたびたび1位を取っていた。
ゲームの詳細は割愛するが、このゲームによって人の広がりはさらに加速する。
ネットが広げたもの
モバゲーやグリー、mixiなんかを通じて当時ちょうど全国のゲーム界隈にも繋がりが生まれ始めていた時期だったこともあって人の輪はさらに広がった。
それがさらに楽しかったし余計な火種ももちろん生んだ。
当時2chとかの晒しからリアルファイトへ移行するなんていう今だったらTwitter炎上、ニュースになるような事件はおそらく…まぁ起きていただろうw
もちろんそんなこともあるが人の輪が広がって僕はゲームによって人とのコミニュケーションの広げ方やさまざまな人種といつのまにか関わるようになっていた。
地元のわるーい先輩や、こわーい人、負けたら灰皿投げる人に首根っこ捕まえてゲームセンターの外まで引きずる人もいるし、飯奢ってくれる人に酔っ払ってゲームセンター代全部奢ってくれた人もいるし、車で寝泊まりしてた人、住むところなくなっていつのまにかゲームセンターの店員になった人から、誰かの彼女だったはずなのにいまや日本一の鉄拳女性ストリーマーになった人…
と、とにかくたくさんの人に触れて会話をした。それがなんかしら今の僕にすごーく意味のあることだった。とそう思ってる。
営業職したことも、いまライブ配信したりこうして文章書いていることもこの頃に触れた多様性が影響しているのだろう。
途中で自分も失敗して地元を離れ、いまや関わりといった関わりもないが、どこかで繋がっていて、またなにかの形で届いて繋がったらその時にきっとそこに光を得るだろうし
知り合ったこと、もらったものは消えはしない
あの頃培った僕はまさかこんなところへ繋がっていたなんて思いもしなかった。
だから辛いこととか、もう進まねーや…って思う時があってもこの先もまだなんかおもろいことがあるんじゃないかなときっと期待できる
まぁそんな大層な話がしたかったんじゃなくって…ww
オンラインゲームや配信を最近してて顔の見えない人とすっと繋がるのもいいんだけど、画面の向こうに人がいて、向き合う覚悟も含めて持ってやってる人って少なくなったなぁと。
僕はゲーム配信してる時から感じていた。
ネットだけど人間と人間だからさ。
ともう一回だけみんなも考えてくれたらいいと思うし
答えが違っても多様性を認めたいな。
僕なんかは一方向でよく意見をいうし偏屈だ
でも一応!たぶん!聞く耳は持ってる!
なんかTwitterとかで当たり前や、コンプライアンスからそれたら叩く風潮があるけどさ、、
笑っていいとも。くらいのノリで許容しようよ。
ってたまに思うよ。
ゲームによって意外と価値観や人生観に大きな影響を受けて今に至っているまげおーれでした。