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アルメニアでのハンニバル

※トップ画像はsèbastien Slodtz(1655-1726)作のハンニバル像(Wikipediaより)。

カルタゴの名将ハンニバル、ローマを恐れさせ、幾度も痛手を負わせながら、遂に勝利を得る事は叶わず敗れった悲運の将。第2次ポエニ戦争終結後、ハンニバルは政治家として祖国の復興に尽力したが、ローマと政敵の策動によって祖国を追われ、以後東方世界を放浪した末に、紀元前183年にビテュニア王国でローマに追い詰められて自ら命を絶った。
ビテュニアに渡る前、ハンニバルはさらに東方のアルメニア王国に逗留していたとされる。一説にはその地でアルタクシアス(アルタクサス)王に重用され、王都アルタクサタの建設を助言したとされ、以下のような伝説が残されている。

「ハンニバルは王国の中で最も自然に恵まれた美しい土地が、手を加えられないまま放置されているのを知ると、そこに都市の予定図を描いた後、アルタクサスをそこへ連れてきて計画を示し、都市建設を勧めた。王は気に入って、ハンニバル自身がこの事業を指揮するよう求めたので、ここに壮麗な巨大都市が姿を現わし、王に因む名を与えられて、アルメニアの首都と宣言されたという。」

プルタルコス『英雄伝』

ハンニバルの時代、アルメニアは未だローマの勢力圏外にあった。マルクス・リキニウス・ルクッルス率いるローマ軍が初めてこの地に足を踏み入れたのが前69年であり、ハンニバルの死から100年以上経った後である。無論、その間アルメニアが平穏であったわけではない。当時のアルメニアはアルタクシアス家とザリアドリス家という2つの王家に分裂しており、それがティグラネス王によって統合されるのは前94年になってからである。とはいえ、ハンニバルにとって最大の脅威とも言うべきローマの手が届かないという意味では、アルメニアは最も安全な場所であった。
上記の王都建設の逸話はあくまで「伝説」であり、アルメニアでハンニバルが具体的にどんな日々を過ごしたのかは分からない。だが、アルタクシアス王が実際にハンニバルを重用した可能性はある。当時のアルメニアは王都建設の逸話からも分かるようにセレウコス朝シリアから独立したばかりの新興国である一方、王家は分裂状態にあり、必ずしも安定しているとは言えず、王は自身の権威と国の安定のために有意な人材を求めていた事であろう。

アルタクシアス王(Berc Fenerci作。 Wikipediaより)

アルメニアにとってローマはまだ「遠い国」ではあったが、隣国であったシリアの客将であったハンニバルの事は知っていた可能性があり、ローマとの戦いで名を馳せ、祖国の復興にも辣腕を振るった能力を買われたとしても不思議はない。もしハンニバルがアルメニアで重用されていていたとしたら、その地に留まり、それなりに穏やな余生を送る事も出来たのかもしれない。その場合、何故ローマの影響力が及び始めたビテュニアへと渡ったのだろうか?
ビテュニアは隣国ペルガモン王国と争い、優秀な将軍を必要とし、ハンニバルはそれに応えた。自身の能力を高く買われたというのは重要ではあるが、それだけが理由であったのだろうか?東方世界の雄、シリアを前190年にマグネシアの戦いで破ってい以来、ローマの東方への影響力は日増しに強まっていた。ペルガモンはローマの同盟国であり、ビテュニアもローマに領土を安堵される立場にあり、ローマがいずれこの地への干渉を強めてくる事は明らかであった。そうなれば自身の身が危なくなる事はハンニバルにも分かっていたはずである。
ハンニバルは迷っていたのかもしれない。既に地中海世界にはローマに対抗できる国はない。60を過ぎた老将の出る幕は無く、祖国から遠く離れた異国の地で平穏な余生を送るのも悪くはない。だが、それでいいのだろうか?勇戦空しくローマに敗れた無念の父ハミルカル、アルプス越えで谷底へと転落していった将兵達、無残な姿となったハスドルバルと祖国への帰還叶わず息を引き取ったマゴという2人の弟、ザマの地で倒れていった将兵達、そうした人々の姿を思い浮かべ、生き残った自分だけが平穏な余生を送る事は果たして許されるのだろうか?
また、祖国カルタゴの事も気がかりだったのかもしれない。9歳の時に後にし、政敵達の策動に悩まされ続けたハンニバルにとって、カルタゴは必ずしも思い出の深い地ではなかったかもしれないが、それでも生まれ故郷であり、自身を慕う者が大勢いたカルタゴは紛れもなく「祖国」であっただろう。カルタゴにはもはやローマに対抗する力は残されておらず、地中海世界の覇権確立を目指すローマはいずれカルタゴをも呑み込むであろう。「自分が祖国のために出来る事は無いか」、「たとえ滅亡を防ぐ事は出来ないとしても、せめて遅らせる事位は出来ないものか」、そういった思案を巡らせていたのかもしれない。
もはや私人として生きるには背負うものが大きすぎた。無力な老人として生き永らえるより、「ローマの敵」として死ぬこと、それこそがハンニバルの望みであったのかもしれない。だからこそ、敢えてローマの力が及びつつあったビテュニアに赴き、「ローマの敵」としての生き様を貫こうとしたのではないのか。それが死んでいった者達に報いる事であり、カルタゴの将としての自分の責務だと考えて。
ビテュニアに渡ったハンニバルは国王プルシアス一世に仕え、ペルガモンとの戦いに従事する一方、ローマの同盟国だったロドスに対して離間工作を仕掛けた。それまでの活躍を考えればささやかなものではあったが、それでも老いたハンニバルに出来る精一杯の反ローマ活動であり、彼が見据えていたのはペルガモンの背後にいるローマだったのであろう。

プルシアス一世(大英博物館所蔵。Wikipediaより)

やがてローマからペルガモンとの和平を斡旋するために「キュノスケファライ(前197年に起こったローマとアンティゴノス朝マケドニアの戦い)の勝者」ティトゥス・クィントゥス・フラミニヌスが使節としてビテュニアに派遣された。そしてプルシアス一世にハンニバルの引き渡しを要求し、王もそれに同意した。進退窮まったハンニバルは自ら毒を仰ぎ命を絶った。最期の言葉は以下の通りであったとされる。

「一人の年取った人物の死を待ち望んでいても、中々叶えられそうにないようだから、今こそ、自分はローマ人に、その心配・渇望を満たしてやろうと思う。」

リウィウス『ローマ建国史』

もしハンニバルがアルメニアに留まっていたら、ローマ人達はどう思ったであろうか。この時のローマにはまだそこまで踏み込む力はない。自分達を苦しめた老将が遥か東方から自分達を睨み続けている、そんな不気味な状態に恐怖を感じ続けたのではないのか。もしかしたら東方で力を蓄えてローマに逆襲してくるのではないのか、と恐れていたのかもしれない。既に老境入っていたとはいえ、ハンニバルの死後、ヌミディア王マシニッサが90歳近い年齢で騎乗し、自ら軍を指揮した事を考えれば、ありえないと言えるだろうか?また、これより遥か後、ローマの将軍だったクィントゥス・ラビエヌスは東の大国パルティアに降り、パルティア軍の指揮官としてローマの東方属州を蹂躙している。ハンニバルの最期の言葉は、自分の影に怯え続けるローマ人達の心中を的確に察した言葉だったと言えるのではないのか。
ハンニバルが遥か東方の地で何を思ったかは想像に任せる他ない。ビテュニアの方がアルメニアよりも待遇が良かった、単にそれだけの事だったのかもしれない。だが、異国の地で祖国や死んでいった者達の事を思い続け、ローマに対し「亡霊」としてではなく「生身の人間」として最後まで立ち向かう道を選んだのだとしたら、「英雄」としてではなく「人間」としてのハンニバルの苦悩や意地を感じ取れるような気がし、「歴史」が単なる記録ではなく、そこに生きた人間達の思いが込められたものなのだと強く思える。

ご拝読ありがとうございました。

参考文献

長谷川博隆『新・人と歴史 拡大版13  地中海世界の覇権をかけて ハンニバル[新訂版]』(株式会社 清水書院)
プルタルコス(柳沼重剛訳)『英雄伝3』(西洋古典叢書)

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