ギリギリアウトだった同僚の話①
同僚で、処分にはならなかったけど、
ギリギリアウトだった人の話です(ギリギリとは何かは置いておいて)。
ある年の、進路に関する面談中の、担任と生徒の会話。
生徒からは自分の意思がまるで感じられず、担任はイライラしています。
これ、実は以前の記事でも紹介したエピソードではあるのですが……↓
この会話には続きがあるのです。
生徒「この大学受けます」
担任「(ちょっと高望みだな……)どうしてこの大学なの?」
生徒「親と塾長に受けろと言われたので」
担任「え? 君はどこを受けたいの?」
生徒「わかりません」
担任「ほかの大学は調べた?」
生徒「調べてません」
担任「この大学には実際に行ってみたりした?」
生徒「いいえ」
担任「それで、本当にこの大学受けるの?」
生徒「わかりません」
担任「君はどうしたいの?」
生徒「……。別に何も」
担任「(イラッ)何それ。そんな、全部他人に決めてもらう人生なんて、生きてる意味ないよ!」←アウト
生徒「……」
ここで、同僚A(担任)は、自分が不適切な言葉を口走ったことに気づきます。
面談が終了し、生徒が帰った後で、Aは自ら校長室へ赴き、そうした言動があったことを報告、謝罪しました。
校長からは
「それは確かによくない言動だ、気をつけて」
と注意を受けたそうです。
それから、生徒の保護者にも連絡。
自分の言動を正直に伝え、謝罪。もしかしたら落ち込んでしまっているかもしれないから、フォローをお願いします、と伝えると、
保護者は
「それはうちの子も悪かった。すみませんでした」
と言ってくれたそうです。
問題が起きたのはその後。
生徒が学校に来なくなってしまいました。
数日後、保護者から電話。
「担任の先生から問い詰められたのが怖くて学校に行けなくなりました。大切な受験期に、なんてことをしてくれたんですか」
この電話を受けたのは、同僚Aではなく管理職でした。
結局、生徒は学校にも登校せず、受けた大学は全落ち。
担任との関係性が回復しないまま、卒業していきました。
Aが何かしらの処分を受けなかったのは、保護者に対して管理職がよく対応してくれたからかもしれません。
この件を見聞きして、僕はまず同僚であるAの立場から考えました。
自分がAだったらどうだったか
正直なところ、同じことを思ったかもしれません。
学校にもよりますが、特に進路多様校には、こういう生徒が結構います。
自分の将来のことを自分で考えられない、決められない。
ここでAがアウトなのは、あくまで口を滑らせたからであって、同じことを思う教員はたくさんいます。
そして、多少言葉を変えたとしても、厳しいことを言えばたちまち吊し上げられてしまうのが現代。
同僚たちは口を揃えて言います。
「言ったら負けなのだから、何も言わないのが一番いい」と。
パワハラを恐れているのは部下だけではない。むしろ、上司の方が、パワハラに対しては敏感な時代です。
学生だろうと、社会人だろうと、誰にだって至らない部分はあります。
しかし今は、たとえ誰かの不徳に気づいたとしても、上の立場に立った人がそれを指摘することは非常に難しいのです。
誰かとコミュニケーションをとることは、それだけでものすごく体力を消費します。
まして、誰かを批判(非難とは違います)したり、注意したり、諭したり、諌めたり、窘めたり、議論したりすることはなおさら疲れます。
今、賢い人は、貴重なエネルギーを割いてまで他人の成長を促そうとはしません。
優しい人は、それでも他人にエネルギーを使おうと四苦八苦しています。
一部のカリスマは、それくらいのことは簡単にやってのけるかもしれませんが、
教員というのは決してカリスマ集団ではありません。
このままいけば、多くの教員が生徒の欠点を見て見ぬフリをしてやり過ごすようになります。
学生時代に誰からも”厳しい言葉”をもらわなかった人は、
社会人になっても「あいつはわかっていない」で済まされ、知らぬ間に干されてしまうかもしれない。
今は、”わかっていない人”はずっと”わかっていない人”のまま歳をとるのです。
自分の至らないところに自分で気づける人はまだいい。
でも、そんな人は稀です。
というか、そういう人は、そもそも大丈夫な人である場合が多い。
今、熱意のある先生たちが腐心しているのは、
いかに叱らずに本人に気づきを与え、成長させられるか
だと思います。
だがこれは、言うは易し……。
生徒の人間力を育む場所であるはずの学校で、教員は手足を縛られて身動きが取れません。
また、僕は一人の親でもあります。
この件を、一保護者の立場から考えてみる。
自分が保護者だったらどうだったか
自分の子どもが、この生徒ほど無意思だったとしたら、僕は悩んでしまうだろう。
本当なら、「勝手にしろ」と突き放してでも自分で決める力をつけてほしいが、
いざそうなったとき、果たして自分がそれほどドライに行動できるか、自信はありません。
そうして親として進退極まっているところに、学校の先生から子どもが
「生きている意味ない」
と言われたら、
「お前に言われる筋合いはない」
と憤ると思う。
十数年、夫婦で、家族で人生をかけて育ててきた大切な我が子に、よくもそんな言葉が吐けたな、と。
失言をする教員には、この視点が欠けているように思う。
親には親の、ドラマがあるんです。
いくら望んでも、子どもは親の望み通りにはならないし、誰もが多様な悩みを抱えている。
だから、軽々にそんな発言を許してはいけない。
一方で、子ども本人に気づかせたいけど、家では(親子関係では)言えないことだって山ほどある。
親が言っても届かない言葉がある。
どこかで誰かが、たとえば学校の先生が言ってくれたら、親としてはありがたいこともある。
Aのようにすぐ謝罪してくれたら、それが心無い言葉ではないとわかったら、
「この人は自分の子どものために一生懸命叱ってくれているんだ」
と、その一瞬は感謝すら覚えるかもしれない。
そう、僕は矛盾している。
教員として、生徒は他人の子どもだと割り切り、自分を守るために沈黙する自分。
教員として、生徒の成長を願い、たくさんの言葉をかけようとする自分。
親として、自分の子どもを他者に否定されたくない自分。
親として、自分の子どもの成長のために、他者の厳しい言葉も必要だと考える自分。
これから先は、この二つの矛盾で縒れた綱の上を歩いていくことになる。
人生の綱渡り、一歩でも足を滑らせれば、怪我では済まないかもしれない。
それこそ、ギリギリアウトなんて言ってられなくなるかも。
でも、これだけは、多くの人に知ってほしい。
今、教員は何も言わない方が得をしてしまうこと。
これを放っておくと、学校という場所の価値は下がる一方です。
学校とは、ひとりでは気づけなかったことに気づける場所、ひとりでは成れなかった自分に成れる場所なのですから。
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