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希死念慮と、生きていく。

こんにちは、まどかです。
今日は
希死念慮と生きていく
という話をしたいと思います。

希死念慮とは、死にたいなあと思う気持ちのことですね。

私、これに苦しんでいた時期がありまして
その正体を知りたい思いから、本を読んだこともありますので
参考程度に紹介しておきます。


ちょっと重いテーマですが、この希死念慮というのは、
私自身と切ってもきれない関係にありますので、
ここでちょっと触れてみたいと思います。

この話は「そういう人もいるんだなあ」と
俯瞰で見てもらいたいと思っています。
もし今まさに、希死念慮に苦しんでいる方は、
この記事が、傷口に塩を塗ることになってもいけないので、
スキップしていただけますと幸いです。


では話しますね。


私はなんだか小学生の頃から、漠然とした希死念慮を抱えていました。
眠るとき、「このまま目が覚めなければいいのに」と思いながら寝ることがしょっちゅうありました。
別に、何か嫌なことがあったわけでもないし、
当時は普通の家庭で普通に育っていました。

嫌なことから逃れるために死があるんじゃなくて、
なんだろう、
当然そこにあるもの、日常の中にあるもの。

朝起きて、学校行って、帰宅して、お風呂入って、ご飯食べて、死ぬ。
みたいな、ルーティンの中にあるものというか。
死っていうものに対してはそんな感覚がありました。

その後、私は死ねないまま、歳を重ねていきました。
その人生ではいろいろなことがありました。

両親の離婚、大学受験の成功、教員採用試験の合格、転職や年収アップ、過労、メンタルブレイク・・など、
禍福は糾える縄の如しといいますが、そんな人生でした。

そうやってどんどん縄を糾えている間にたくさんの武器を身につけていて、
「わたしは勉強ができるから生きててもOKだ」
「私は仕事ができるから生きててOKだ」と、
自己を肯定する理由を、自分の外側にある「勉強」「仕事」に依存していました。こういった武器で、希死念慮に上手に蓋をして生きていたとも言えます。

その蓋が外れたのが昨年の9月。
適応障害からの鬱病により仕事を辞めることになりました。
そして自分を支えていた「私は仕事ができるから生きててOK」という根拠がなくなりました。
その結果、希死念慮を抑える理由もなくなり、
蓋のはずれた希死念慮が一気に押し寄せました。

積極的に死にたい、というよりは、
もう生きるの終わりにしたい、って感じです。

惰性でSNSを見ていたあとに
「よし、そろそろ風呂入るか」
って切り替えると思うんですけど、
そんな感じで、
「よし、そろそろ生きるの終わりにすっか」
って感じです。

死にたいと思いながら生きることがこんなにも辛いことかと、
あのときの心中を思い出すと
今でも涙が出そうになります。

それでも、そんな私をみかねた親友が、
私が一人にならないように、家に居候させてくれたんですね。
そこで過ごした時間が救いになり、
「生きるのに根拠はいらないんだ」と思えて、
少しずつ生きる気力を取り戻しました。

で、1年くらい経った今年9月。
ちょうど2ヶ月くらい前ね。

季節ってすごいよね。
去年の抑うつがひどかったときの感覚を、
五感が覚えていたんだよね。

あの時と同じような気温になってきたときに、
またあの「蓋のできない希死念慮」がやってきました。

頭では「えっ、もう大丈夫なのに」って分かっているのに、
心がずっとドキドキバクバクしていて、
涙と動悸が抑えられなくなっちゃうことが何回かありました。

こんなふうに毎年毎年、
バックドラフト現象みたいなことが起きては困るわけです。

でも多分、頭ではもう大丈夫だって分かり切ってるけど、
30年かけて作られている希死念慮ってめちゃくちゃ大きいので、
押さえつけることも不可能だと思ったんですね。

それに、私も歳を重ねておばさんになってきたので、
ある程度図太くもなっているわけです。

で、
「長生きなんて真っ平御免だわ」
「だからこそ明日死んでもいいように今日生きよ」
っていう考えが、誰から言われるでもなく、
自分の腹の底から出てきたんですね。

心からそういうふうに思えたら、
また「死にたいなあ」という気持ちが出てきても
「はいはい、今そのために頑張ってるからちょっと待っててね」
っていう、ぐずる子供を宥めるみたいに、扱っています。

そんなふうに過ごす中で、
ひすいこたろうさんの「明日、死ぬかもよ?」
という本がオーディブルで聴けることが分かって、
私は1日の終わりに、ベッドでその朗読を流しながら、
まるで死んだような気持ちになりながら、穏やかに眠っています。

では、ここからは『あした、しぬかもよ?』の、本の紹介をしますね。

この本は、
「もし明日が人生最後の日だったら、今日をどう生きるか?」
という視点から自分自身を見つめ直す27の質問を通じて、
読者に生きる意味を問いかける本です。

たとえば、
「いま抱えている悩みは、たとえ人生最後の日でも深刻ですか?」や、
「あなたが両親を選んで生まれてきたのだとしたら、その理由は何だろう?」
といった問いかけが含まれています。

寝る前にこの本のオーディオブックを聴きながら眠りにつき、
心の安らぎを得ることで、
希死念慮が完全に消えることはなくても、
それを抑え込むのではなく、前向きなエネルギーとして使うことができるようになってきました。

では、
この出来事を学び的アプローチでどう捉えていけるのか
っていうのを共有しますと。

1つは、感情を受け入れるのには勇気がいる、ということ。
私は希死念慮そのものよりも
「そんなこと考えてはダメだ」と抑圧するほうが辛かったなと思います。
抑圧した感情は、心に負荷をかけ続けます。
抑圧ではなく受容して、自分の一部として認めることで、
初めて心が楽になります。
この「受容」は、マインドフルネスや認知行動療法でも用いられます。

2つめは、価値観の見直しという観点です。
私のように「仕事できるから」「勉強できるから」と、
自分の価値を外部の基準に頼ると、変化に弱くなりがちです。

自己肯定感という言葉と似ているもので
自己効力感っていうのがある。

自己効力感っていうのは私みたいに
「自分はできるからOK」って思えること。
それに対して自己肯定感っていうのは
「できなくてもOK」「OKに理由はいらない、まるごとOK」
っていう感覚です。

私はそれを、居候期間中に少しだけ体得できたと思います。
居候なので家事も仕事もしない。
まあちょっとはしたけど、基本ただ居るだけでした。

でもそれでもOKな場所だったんです。

私はその親友に対して、
どんなことがあっても生きていてほしいし近くにいてほしい
って思うけど、たぶん
親友も私に対して同じように思っていてくれていたんだろうなあと、
思うことができます。


3つめは、外部から自分への優しさを取り入れるということ。
価値基準を外部に求めるのはやめた方がいいけど、
自分の価値観を補強するものを外部から取り入れるのは
良いことだと思う。
心地よい音声や、優しい言葉は、心をリセットする手助けになります。
私は『あした、死ぬかもよ?』の朗読を聴くことが、
その役割を果たしています。




希死念慮は決して褒められたものではないし、
簡単に消えるものでもない。

でも、その存在を否定せず、共存しながら生きることで、
より充実した毎日を送ることができるようになるんじゃないかな。

今日の話が、少しでもあなたの心の助けになれば、
もしくは「そういう人もいるんだな」という学びになれば、幸いです。

私は今日も死ねなそう。
その可能性は、明日に持ち越すとしますか。

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