生の反対は、死じゃない。生まれてこないこと。
こんにちは、まどかです。
今日は
「生きるの反対は、死ぬことじゃない。生まれてこないこと。」
というテーマについて話したいと思います。
なぜこの話題について考えるようになったかというと、
きっかけになったのは、精神科医kagshun先生が書かれた
『メメントモリ〜死者の日に思い出すこと〜』という記事です。
https://note.com/emanon_kagshun/n/n3ee910ca8b68
メキシコの「Día de Muertos(死者の日)」について書かれたこの記事が、
私の中で「死とは何か」「生とは何か」という問いを
再び深掘りするきっかけを与えてくれました。
◼︎生きることと死ぬことの違い
「生きるの反対は?」と聞かれたら、咄嗟に
「死ぬこと」と答えるかもしれません。
小学生のなぞなぞだったらそういうやり取りをするかも。
実際、「生きる」と「死ぬ」は一見すると正反対のように見えます。
でも、私はそうではないと感じています。
なぜなら、死は生きることの延長線上にある自然なものであり、
私たちが避けて通れないものだからです。
私が「生きるの反対は、死ではなく、生まれてこないこと」
だと感じる理由には、ある経験が関係しています。
実は私は三人兄弟なのですが、母は4回妊娠しています。
つまり、4回妊娠したうち1回は、流産でした。
お腹の中に命が宿ったものの、
この世界に出てくることができなかった命があって、
私にはそんなもう1人の兄弟がいるのです。
私が長女で、2個下に妹がいます。
その後に妊娠した子が生まれて来れず、8個下の弟が生まれて、
母はそれを最後の出産としました。
私は、弟が大好きです。
でも、弟の前に母の中に宿った命が無事に生まれて来ていれば、
弟は生まれて来ませんでした。
そう考えると、生まれてこなかった命があるという事実に、
喜んでいいのか悲しむべきかがわからなくなってきます。
ちなみに余談ですが、
母が流産したと知った時、わたしは多分5歳か6歳とかだったと思います。
病院から帰って来て玄関先で泣き伏せる母に、
父がそっとタオルを差し出していました。
が、そのタオル、普段雑巾として使っているものだったので、
幼心に「あれ…それ雑巾だけど…」って思ったことを覚えているので、
鮮明な記憶として残っています。笑
◼︎「お誕生日おめでとう」
ところで、みなさんはお誕生日の人に
「お誕生日おめでとう」と言ったことありますか?
きっとありますよね。
私もある誕生日の日、たくさんの人に
「お誕生日おめでとう」と言ってもらいました。
同じ日、友人が一級建築士の試験に受かったことを報告してくれて、
私はその子に、合格おめでとうと言いました。
そこでふと疑問に思いました。
友人は、難関試験に突破して「おめでとう」なのは分かる。
でも私、何もしていない。
でも、生まれた日というだけで、おめでとうと言ってもらえる。
なぜだろう、と。
でもすぐに、
私には生まれてこれなかった兄弟がいることを思い出しました。
that's whyとなりました。
生まれてこないという可能性もあった中、
私は生まれてきたのだから、めでたいのだと。
試験に合格する経験は誰もがする経験とは限らないけど、
お誕生日なら誰しも経験する日だ。
お誕生日おめでとうって、なんて素敵なお祝いの言葉なんだ、と。
生と死の間にある「生まれてこない」という状態に気付いた時、
命の尊さや、生きていること自体がいかに奇跡かを感じました。
生まれてこなかった命の存在を知っているからこそ、
「生きること」とは何か、「死とは何か」を
より深く考えるようになりました。
◼︎メキシコの「死者の日」に学ぶ死の受容
kagshun先生が紹介されていたメキシコの「死者の日」は、
死をただ悲しむのではなく、
生を称賛し、故人を思い出す日なんです。
この日、人々は賑やかなパレードや装飾で街を彩り、
亡くなった人々の思い出を共有しながら生と死を祝います。
死は決して恐れるものではなく、
むしろ共に生きるものとして受け入れるべきだと感じます。
私たちが「死」を遠ざけてしまうと、
ふと日常生活で死に触れた時、不安を増大させることがあります。
しかし、メキシコのように死を生活の一部として受け入れる文化に触れると、
生の中に死が自然に組み込まれていることを再認識できるんじゃないかな。
これを見て、私たちももっと自然に死を受け入れることで、
もうちょっとラクに生きられるかな、と感じました。
◼︎心理学的な視点と希死念慮の経験
心理学的にも、
死をどう捉えるかは心の健康に大きく影響を与える
っていう考え方があります。
死の恐怖や死を過剰に忌避することは、
生活を制約し、生きることそのものに不安をもたらすっていうことがあるんですね。
例えば、タナトフォビア(死恐怖症)という症状では、
死への強い恐怖が日常生活に影響を与えます。
これを克服するためには、死を避けるのではなく、受け入れることが重要です。
以前の放送でも言いましたが、
私自身も、希死念慮に悩まされた経験があります。
希死念慮そのものよりも、
「そんなことを考えてはいけない」
と感情を抑え込んでいたことの方が辛かった気がします。
抑圧することはかえって心に大きな負担をかけ、
しばしば逆効果になります。
「感情は、抑圧するのではなく受容すること」
が大切だと言われており、
マインドフルネスや認知行動療法などでも
感情を一部として受け入れるアプローチが使われています。
私の場合も、抑えるのではなく受け入れることで、
少しずつ心の負担が軽減されました。
◼︎生きることの奇跡と存在の意味
ドラマ『アンナチュラル』の中に、とても好きなセリフがあるので紹介します。
第8話「遥かなる我が家」
突然妻を亡くしたご老人が、その事実を受け入れられなくて、
お骨の受け取りも拒み続けていました。
「俺がろくでもない亭主だから、バチが当たったんだ。
神様に取り上げられちゃったんだ」と言います。
そこに、松重豊さん演じる神倉所長が
「死ぬのにいい人も悪い人もない。
たまたま命を落とすんです。
そしてわたしたちはたまたま生きている。
たまたま生きているわたしたちは、
死を忌まわしいものにしてはいけないんです」と述べています。
(ああ・・・泣ける・・・本当にそうだ・・・)
この言葉、本当にそうだなぁと思って、
私の心にとても響きました。
亡くなった人には、もう会えなくなってしまうから、
それはとても悲しいことだし、涙も出るかもしれない。
でも、悲しいのは、それだけなはず。
死は、誰もが迎える当然の結末だし、
生きてる私たちが勝手にそれを忌まわしいものにしてはいけないとおもう。
◼︎終わりに
今日は、
「生きるの反対は死ぬことじゃない。生まれてこないこと」
という考え方をお話ししてみました。
私たちは、たまたま生まれ、生きている側にいるだけ。
あるいは、生きるか死ぬか、だけではない。
健常者として生まれて来たことや、
自然災害の被害に遭っていないことも、
たまたまだと思います。
たまたまノーハンデで生きている私たちが、
たまたまハンデを背負ってきた人たちを
避けたり仲間外れにしたりするのは違う。
その方がもしハンデを背負わなければ、
自分がそれを背負っていた可能性があるわけです。
「助け合いが大事」とはよく言いますが、
「助けてあげる」のではなくて
「私が背負わなかったハンデを背負ってくれてありがとうね」
という気持ちでするものだと思っています。
なんか最後、話が広がっちゃったけど。
必要以上に死を恐れず、死を忌まわしいものにせず、
生きることの延長にあるものだと捉え直して、
日々生きていけたらなと、思っています。