ぼっち・ざ・ろっく!の嘘のエモさ
喜多郁代
最かわ最エモキャラの喜多郁代の話をする他ない。
主人公の後藤ひとりを中心にぼっち・ざ・ろっく!は展開される。ひとりの身の回りで起こったこと以外は視聴者にも観測できない。ひとり視点と実際の姿の乖離最も大きいのが喜多郁代である。我々から直接見える喜多郁代は能天気に口を開けている姿だ。彼女が何を考えているか、一人でいるとき何を思い悩んでいるか直接知る術はない。
急にキラキラした陽キャとして描写をされてきた彼女がこんなことを言って意外に感じたかもしれない。しかし、登場回から裏表のあるキャラクターであることは暗に示されている。ギターを弾けると嘘をついて結束バンドに応募した大きな嘘と、もう一つのさりげない嘘がある。
この後、やけどの手当をきっかけに偶然ひとりは郁代がギターの練習をしていたことに気付く。メジャーコードとマイナーコードはさておき(俺もわからん)、弦を抑える練習をしていないと指が固くなることはない。
ギターができないのに、嘘をついてバンドに応募して本番前に逃げ出した。本番までにできるようになるつもりで練習したが、だめだったというのが実際のところだろう。しかし、嘘をついて入って全く練習もしなかったという余計に印象が悪そうな嘘をついている。
おかしなことで言えば、そもそもギターを弾けるという嘘自体、結束バンドに加入するためには不要だった可能性が高い。偶然公園にいただけの、その時点で虹夏とリョウから見たら下手なひとりも、一度逃げてギターが弾けない郁代も結束バンドに受け入れられている。虹夏が手書きしていた募集ポスターには「新人の方、見学のみでも 大歓迎!!」とある。素直に「ギターは弾けませんがこれから頑張ります」と言えば受け入れられていた可能性が高い。
加えて、ギターを弾けるようになってから逃げたバンドのメンバーに謝りたいというのも、改めて考えると変な話である。逃げ出した時点でギターが弾けなかったことと、後から弾けるようになったことは関係ない。可能な限り早く謝りに行くのが誠実な対応である。ギターを弾けるようになって改めてメンバーにしてもらいたいと考えていたとかではなく、郁代は一度逃げだした自分が受け入れられるべきものではないと、この時点では考えている。
喜多郁代の登場回の言動はあまりに整合性が取れていない。彼女の頭が悪いというわけではなく、なんなら要領がいい。しかし、合理的でないのが人間というもので、なぜ合理的でないかを考えると人間らしさが見えてくる。
後藤ひとりと喜多郁代の類似
喜多郁代はまっすぐで明るい"陽キャ"というように周りから認識されている(キターン)一方で、嘘をつく裏表が全くないわけではないキャラクターである。
もう一人の嘘をつくキャラクターと言えば後藤ひとりだ。ひとりは嘘をつくが、場当たり的で対人能力が低いのですぐにばれるか相手を困惑させることが多い。加えて主人公なので、考えていることは全て我々視聴者にわかる。一方で、対人能力が高く要領がいい郁代の嘘は気付かれないし、なぜ嘘をついたのかひとり視点の我々から直接は知ることができない。
ここでは、ひとりと郁代の比較から郁代の見ている世界の説明を試みる。後藤ひとりと喜多郁代は本質的には似た人間であるという結論に向けて、ひとりと郁代の嘘の類似点を述べる。
まず、ギターの練習をしていないかのように振舞った嘘について。これに関しては全く同じ構図で同じ嘘をひとりもついている。「#6 八景」で初対面の廣井きくりにギターに言及されたときに、ギターは初めてもいないし今から売りに行くと嘘をついた。理由は大人のバンドマンであるきくりに「怒られる」と思ったから。ここにはひとりの劣等感からくる被害妄想のような観念がある。相手の攻撃的なリアクションを警戒しての保身のための嘘。同じく、郁代がギターを弾けるひとりに対し、ギターを練習していたことを隠したことも劣等感が原因であるとすると、その劣等感とは何か。劣等感の塊のひとりと違い、郁代は一見そんなものはないように見える。
みんなで何かをすることに対する漠然とした憧れの裏には、何かに打ち込んだり成し遂げたことがないことへのはっきりとした劣等感が横たわっているのではないか。
郁代は嘘が下手というわけではない。「#10 アフターダーク」でひとりが捨てた文化祭の申し込み用紙を捨てたものだとわかりながら、気づかないふりをして提出したことを白状する。罪悪感から自分で嘘を白状するが、それまでは自然な行動として受け入れられている。
それもそのはずで、ひとりの行動予測と郁代の嘘をついたうえでの行動は完全に一致している。郁代は周りから見た自分、つまり、無邪気な向上心で行動する像を認識しながら、それと整合性が取れるように嘘をつくことができる。
劣等感、ありていに言えばコンプレックスは字のごとく込み入ったものであり判断を歪ませる。ギターを弾けないのに弾けると嘘をついたことも劣等感が理由だとすると辻褄が合う。郁代の憧れの対象である山田リョウは言わずもがな、リーダーとしてバンドを引っ張る伊地知虹夏は何かに打ち込む人間であり、つまりは郁代の憧れの対象でありながら劣等感をより強く感じさせる相手である。
ひとりは人に対し自分の弱みや短所、失敗を見せることを嫌い、またそれに対する他者の反応を悪い方向に過大解釈する性質がある。ギターヒーローでのアカウントでの虚言や、郁代を勧誘したときの結束バンドのパリピ偽装など、嘘で表面を取り繕おうとするシーンはいくらでもある。加えて、「#4 ジャンピングガール(ズ)」では写真撮影の呼び出しを、歌詞を完成させない自分のつるし上げと誤解しており、他者のリアクションに悲観的だ。
このような心理が郁代にも働いていれば、ギターを弾けるという嘘をつくのは自然である。ギターを弾けない状態でバンドに入りたいといえば、怒られたり顰蹙を買うかもしれないと考えての嘘であり、その考えの理由は劣等感である。郁代にとってリョウと虹夏の前に立つ資格を得るにはこの劣等感の原因を克服する必要があり、ギターを弾けると嘘をついた。一度嘘をついた手前、ギターを弾けるようになることが彼女らの前に立ち謝罪する資格を得ることになっていた…と考えるのは飛躍しすぎだろうか。
青春コンプレックスを抱える後藤ひとりから見て、青春を謳歌しているかのように見える喜多郁代もまた、別の形で青春の過ごし方にコンプレックスを持っている。この二人はコンプレックスを持ち、周囲のリアクションを過度に恐れる点で似たもの同士である。
後藤ひとりと喜多郁代の分岐と邂逅
後藤ひとりと喜多郁代は似たところがある一方で、一見対称的である。性質とはつまり先天的なもので、後天的な部分が表に現れている部分であろう。
おそらく、郁代にもあったのではないか。自分なんかがあの輪に入っていいのかと思ったことが。そこからひとりは逃げて、郁代は適応した。ひとりがぼっちのまま一日6時間のギターの練習をしている時間で、郁代は人と関わり愛される陽キャのペルソナを獲得した。
ひとりと郁代の邂逅とはつまり、同じ性質を持って生まれてきたが真逆の方向を向いてきた二人の人生が交わることである。そんな二人が互いに惹かれていく。
何者
似たもの同士で対照的な二人は奇しくも同じ願望を持つ。
何者かになりたい
どちらもなりたい何者かの形は登場時点では漠然としているが、何者かの定義はそれぞれ異なる。
ひとりの何者かとはちやほやされることであり、つまり、他者からの評価である。どのようにそうなるか、形を持たない漠然とした夢が、虹夏の描いた夢に当てはまることで具体的な形を獲得する。
それに対して郁代はどうだ。彼女は既に人気者でちやほやされる存在である。ひとりからすれば既に何者かであり、憧れの対象である。バンドでも一番目立つギターヴォーカルの郁代を「何者でもない」と思う者はいないだろう。しかし、まだ郁代は自身を何者かであるとは思っていない。郁代にとっての何者かとはカリスマ性を持っていたり、何かに打ち込んできたような者。登場回の時点でそれは山田リョウであった。
郁代がひとりを支えていくという決意は、ひとりこそが何者かであるという価値観の上に成り立っている。四人の中でも技術的に優れていて堂々とした人目を引くリョウとは違い、この時点では少なくとも、ひとりは人前での演奏は得意ではなく、カリスマ性の片りんを見せたのみである。ミーハーな人気者とは程遠い。一番目立つところにいながらも、郁代が周りに合わせてではなく、自分自身で獲得した価値観である。ひとりを支える立場という、ぼんやりとしていた郁代の何者か像がはっきりしたということでもある。
ギターと孤独と蒼い惑星
ここまでの考察が合っていれば、ひとりらしさとは、似た性質を持つ郁代らしさでもある。
登場回の矛盾した言動から一転し、#12での吐露まで、この回も含めてキラキラして無邪気な向上心に満ちた陽キャでありつづけた。それもそのはずだ、もし彼女がひとりと同じ性質を持つならば、郁代がありのままを見せることはひとりが人の目を見れないことと同じく、とても難しいことだからだ。さらには、対人能力の高い郁代がもし裏で悩み叫んでも自ら表に出さなければ気づかれないだろう。
この瞬間郁代が歌うのは、ひとりらしさのある歌詞として書かれたものだ。偶然それは本来語られなかった郁代らしさであったならば…
力強く語られるのは郁代らしさ。自ら語ろうとすることはなくても、このときは歌詞を歌うだけ。