ゆるふわな学び

 役に立つとか役に立たないとかそういう物差しで学問をとらえているひとがいます。そして、そういうときに、たいてい槍玉に挙げられるのは文系の学問です。「いやいや、文系知だって社会の役に立つんだ」という反論をかつての私はいろいろ考えていました。しかし、文系知が実際にどのような場面で社会に貢献できるのか考えたとき、その答えらしきものは見つかったが、それを言語化できず、モヤモヤしたものを抱え続けていました。そんなとき、私が抱えていたモヤモヤを雲散霧消してくれることばに出会いました。
 まずは、吉見俊哉さんの『「文系学部廃止」の衝撃』より、

「役に立つ」ことには二つの次元があります。一つ目は、目的がすでに設定されていて、その目的を実現するために最も優れた方法を見つけていく目的遂行型です。これは、どちらかというと理系的な知で、文系は苦手です。たとえば、東京と大阪を行き来するために、どのような技術の組み合わせれば最も速く行けるのかを考え、開発されたのが新幹線でした。また最近では、情報工学で、より効率的なビッグデータの処理や言語検索のシステムが開発されています。いずれも目的は所与で、その目的の達成に「役に立つ」成果を挙げます。文系の知にこうした目に見える成果の達成は難しいでしょう。
しかし、「役に立つ」ことには、実はもう一つの次元があります。たとえば本人はどうしていいかわからないのだけれども、友人や教師の言ってくれた一言によってインスピレーションが生まれ、厄介だと思っていた問題が一挙に解決に向かうようなときがあります。この場合、何が目的か最初はわかっていないのですが、その友人や教師の一言が、向かうべき方向、いわば目的や価値の軸を発見させてくれるのです。このようにして、「役に立つ」ための価値や目的自体を創造することを価値創造型と呼んでおきたいと思います。これは、役に立つと社会が考える価値観そのものを再考したり、新たに創造したりする実践です。文系が「役に立つ」のは、多くの場合、この後者の意味においてです。

吉見俊哉『「文系学部廃止」の衝撃』

 そもそも理系知も文系知もそれぞれベクトルは異なるが、どちらも「役に立つ」んだという主張ですね。簡単に書くと「理系知」が、所与の目的を実現するための方法を短期的に見出そうとするもので、「文系知」が、価値や目的自体を長期的に創造していくものです。どちらも次元は異なれど、それぞれ役に立つものです。
 この吉見さんの文章ですが、2017年の大阪大学の入試問題で使われています。文科省が全国の国立大学に人文社会系学部などの廃止・見直しを要請したのが2016年6月のことで、その少し前から文系縮小の圧力が漂っていたのです。そのような文系軽視の考えが蔓延していた現状に喝破した吉見さんの文章を大阪大学が出題したというのは興味深いことじゃありませんか? 大学側は、受験生に「近年文系が軽視されているが、文系知も大事なんだ」ということを主張するメッセージを伝えたかったのでしょう。

 また、「役に立つ」という幻想に提言した人で小泉信三という方がいます。彼の著作の『読書論』から引用します。

 すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本であるといえる。人を眼界広き思想の山頂に登らしめ、精神を飛翔せしめ、人に思索と省察とを促して、人類の運命に影響を与えてきた古典というのは、右にいう卑近の意味では、寧ろ役に立たない本であろう。しかしこの、すぐには役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められてきたのである。

小泉信三『読書論』

 小泉さんは「古典」について「すぐに役に立たない」と言及しています。しかし、裏を返せば次のようなことをいえそうです。長期的で見れば、古典は人間の精神を養い、人類の文化を進めていくのだ、と。結局、これもさっき引用した吉見さんの文章と根本の主張は同じですね。
 ちなみに小泉さんのこの本は1950年に出版されたので、とても古い本です。そんな古い時代に、古典は「役に立たない」のではなく「すぐに役に立たない」のであって、長期的な目で見れば「役に立つ」という結論に行き着いています。そう考えると、『読書論』が出版されてから70年以上も年月を経ても、古典は「役に立つか、役に立たないか」など議論されているのが滑稽に思えますね。
 また、小泉さんは「すぐに役に立つ本」は「すぐに役に立たない本」といっていますが、まさにその通りで、特に現代社会においては目まぐるしいほどに状況が変化しています。一過性のトレンドというものがあり、気がつけばそれはもう流行りではなくなってしまっている。「今はこの業界がアツい! だから、このスキルを磨け!」といったものが、数年後には「その業界はもう伸びしろないよ。そのスキルはもう時代遅れだよ」といわれてしまう。そういった意味で「すぐに役に立つ」(本ではないが)は「すぐに役に立たない」のです。
 だから、必要なのは、どんな場所においても「役に立つ知識」ではないでしょうか。そこで松村圭一郎さんの『これからの大学』を引用します。大学での学びとは何か、ということについて語られています。昨今、就職活動の早期化が進み、大学という場所がますます就職予備校化しています。そんな時代だからこそ、今こそ大学教育とは何か? 学問とは何か? を問いなおす必要があるのだと思います。

 いま大学には、世間知らずの研究者ではなく、社会のことをよく知る実務家教員がもっと必要だと言われています。じっさいに一定の実務家教員がいなければ、大学無償化の対象からはずす、という方針さえ唱えられています。
「実務」が何を意味するか、定義は不明瞭なままですが、たんに会社で働いた経験があるとか、学問とは違う場での知識があることを意味しているとしたら、それにたいした価値があるとは思えません。
……(中略)……
 大学は、なんらかの知識や経験をもつ人がその知識や経験を知らない学生に披露するための場所ではありません。大学の教員が経験してきた時代と、これから学生が世の中に出て働いていく時代はつねに違いますし、歩んでいく人生そのものが大きく異なります。教壇に立つ人間の経験や知識がそのまま生かせるわけではないのです。
 そもそも、学生たちは、まだ何者になるのか、定まっていない人がほとんどです。だから、特定の場所で役に立つ(役に立った)知識を覚えるよりも、どんな場で働くことになっても役に立つ考え方、物事を見極め考える方法を身につける必要があります。ある企業ですばらしい功績を挙げた人が学生に向って、自分の過去の話をしても、それ自体がすぐに社会に出て役に立つわけではないのです。
 学生が世の中に出て、どんな現場に立っても必要となるのは、自分で情報を集め、それらを検証しながら、あらたに知識をつくりだせる力でしょう。その学問にとっての基本的な方法論こそが重要なのです。

松村圭一郎『これからの大学教育』

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 とはいえ、こんなことを言ってしまっては元も子もないのですが、私は役に立つとか役に立たないとかそんな観点で学問をとらえること自体ナンセンスなんだなと思っています。いろいろな本を読み、いろいろ考えた末の結論です。だから、文系知(古典など)が実用的かどうかという議論に対し、反論する気は完全に失せてしまいました。
 役に立つ役に立たない論争で俎上にあげているのは、たいてい社会の成長に寄与できる優秀な人材になるための知識やそんな社会で生きる上で必要な知識のことです。だから、どれだけ文系知が役に立つと説得しても結局は無駄なのです。議論は平行線をたどるだけです。
 「文系は必要か?」「古典は必要か?」という問いには、いつもそれらの言葉の前に「目に見える形で社会に貢献できる知識を得るために」という見えないフレーズが接続されています。だから、そのような問いに対する解答はすべて「必要ではない」となってしまいます。つまり、そのような問い自体、はなっから無意味なのです。
 
 役に立つ/役に立たない
 その図式からいったん離れてください。
 娯楽に興じる際に実用的かどうかを考えないでしょう。それと同じように古典などの文系知も実用的かどうか考えなくていいのです。
 例えば、古典を例に――
 なんとなく、肩ひじはらずに古典というものを味わってみる。「へえ、昔の人はこんなことを考えていたんだあ、へえ。」くらいのテンションでOK。それぐらいのマインドでいいんです。そして、「こういう考えって昔からあったんだ」という考えから「この考えって、今の現代社会に必要じゃない?」という考えに至り、徐々に現代社会に眼差しを向けていく。過去と現在に掛け橋を渡していく。そういうことを通して、現代社会をとらえ直す多角的な見方を獲得していく。私はそれこそが「古典を学ぶ意味」だと考えています。
 そんなふうに気軽に考えてみてください。そこには実用的な観点が介在していません。なんとなく学んでみて、そこから知見を得る。それだけで十分です。十分「学び」といえます。「学問」「アカデミック」など言われると、堅苦しく感じますが、そんなことはありません。もっと、ゆるふわに「学び」をとらえていいものだと思います。有用性を離れた先で、のびのびした学びの先で、生きていく上で大切だと思えることに出会えるかもしれませんね。
 

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